三 戸惑いの夜

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三 戸惑いの夜

「光子さん。申し訳ございません。普段は穏やかな旦那様なのですが」 「構いません」 わがままな患者を看てきた光子は冷遇を当然に受け止めていた。 そして彼女は白也と坂上と相談し、赤司を刺激しないように女中服に着替え侍女として彼の身の回りの仕事をすることになった。 赤司の主治医とは明日対面し、今後の治療方針を確認することになった光子は白也と坂上と打ち合わせをしていた。老執事の坂上は申し訳なさそうに語った。 「どうかお願いでございます。光子さんは看護の為に来てくれたのはわかっておりますが、あいにく旦那様はあの様子です。当分は治療というよりも今の様子を見ていただけないでしょうか」 必死の坂上に白也もため息をついた。 「どうかな。光子さん」 「……そうですね。明日、お医者様と相談して決めますね」 やがて白也が帰った後、光子は女中頭の南田に紹介された。 「お前は私の部下ですので、光子と呼びます。私の事は南田様と呼びなさい」 「はい、南田様」 ……私よりも五歳くらい上かしら。 南田は若い光子を上から下までじろじろ見た。 「最初に言っておくけれど、お前は看護師の前に我が屋敷の使用人よ。旦那様は大変気を遣う方だから、なるべく姿を見せないでちょうだい」 南田は主を大切にするあまり、この領域に触れて欲しくないという空気を纏っていた。先輩看護婦と仕事をした経験のある光子はその匂いを感じていた。 ……ここはいう通りにしよう。 「かしこまりました」 「では。さっそく始めてもらうわね。こっちよ」 立派な屋敷の廊下であるが、女中不足のせいか陰気で暗い感じがした。光子は恐る恐る訪ねた。 「あの、南田様。他の使用人の方はどちらにお出でですか」 「今、紹介しようとしていたのです!料理人の黒川と、キイとヤマがおります」 「すみません」 ……そうか。それだけいれば、もう少し手が回ると思うけれど。 屋敷の規模を思えばこの人数でもう少し手入れができる気がした光子であるが、ここは南田の案内で進んだ。 正午の今、南田は溜まっていた洗濯物、洗っていない食器やまだ掃除をしていない室内の清掃を命じた。光子は素直に頷いた。 「ではこちらへ」 「はい」 洗濯場に案内した南田は、タライと洗濯板を指した。 「旦那様は仕事の訓練のため泥等で衣服が汚れるの。だからこれを綺麗にするように」 「はい」 「そして石鹸ですが。これを」 南田は石鹸を衣服に直接つけ、こすり方などを部分洗いのやり方を細かく指示してきた。 「こうして、こうよ。服は必ず裏返しにして、ここもこうして、洗いなさい」 「はい」 「水だけよ。お湯は使わずに綺麗にできるはずよ。そしてすすぎは必ず三回ね」 「……わかりました」 南田は忙しいといい洗濯室を後にした。残された光子は山になっている洗濯物に深呼吸をした。 看護の仕事は病人のシーツの洗濯もあった。大量の洗濯物に慣れているが、南田の面倒な指示に従う光子は時間をかけて洗っていた。 ……確かに看護の前に、今は屋敷の様子を知ることの方が大事そうね。 こうして洗濯物はたくさんあったが、なんとか綺麗にしすすぎとなっていた。この時。南田が顔をだした。 「あら?もうすすぎなの。何回目」 「これで三回目です。後は干すだけです」 しっかり絞った洗濯物を南田は持ち上げて確認した。 「……汚れは落ちて、いるか」 南田は細かく確認したが、汚れは落ちていた。そして二人は干すために庭にやって来た。 「この竿に干すのよ。衣服が傷むので裏返しのままよ。そして干し方はこうやってこう」 南田の細かい指示を光子は実行した。やがて光子は屋敷の掃除になった。 「食事の支度は調理人と私でやります。お前は時間まで掃除をしていなさい」 「はい。かしこまりました」 「あ?もうこんな時間?支度をしないと」 廊下の奥に去った南田を見送った光子は静かに清掃を始めた。埃が溜まっていた窓を開けた。 ……こんなに埃があるなんて、これでは健康な人だって気分が悪くなるわ。 光子は先ほど対面した赤司のイライラした顔を思い出していた。そんな掃除は夕刻まで続いた。 ◇◇ ……ん。こんな時間か。 自室にいた赤司は、長椅子に座り本を読んでいたが、手元のページを見て寝ていたことに気が付いた。 もう夜になっていた空気に立ち上がり伸びをした彼の部屋に、坂上がノックして入って来た。風呂を進められた彼は入浴を済ませ、夕食のテーブルに着いた。 「旦那様、今宵は旦那様のお好きな白身の魚ですぞ」 「それよりも爺。あの娘はどこから来たのだ」 「白也様のご紹介で、上野病院の看護婦とのことです」 「看護婦」 ……看護婦なんて、どうせいい加減な女だ。 医務室の看護婦に騙された事を苦く思い出している赤司を知らず、坂上は白也が預かっていた青正の話をした。 「そうか。伯父貴が青正を預かっていたのか。あいつ弟ができて不安になったのだろうな」 年下の従弟の話を聞きながら赤司はフォークでほうれん草のソテーを排除した。坂上は老眼の目で必死に書類を読みあげた。 「これによると、光子さんは小児科担当の看護婦とのことです。彼女は子守りとして過ごしていたそうですが、青正様はすっかり元気になりまして、現在は親子で暮らしているそうなので」 「小児科担当だと?俺をバカにしているのか……」 若い看護婦をそう捕らえた赤司はまだ自分の病を受け止められずにいた。夜の出来事は無自覚であり全く身に覚えがない彼は、看護婦が来たことに嫌悪していた。 「で、あの娘は何か治療をするのか」 「それは明日、医師と相談して決めますが、当分は屋敷の仕事をしていただきます」 「屋敷の仕事か」 ……どうせ。金目当てであろう。 信頼できる伯父の紹介であるが、青正や白也と親しい様子にへそ曲がりの赤司は機嫌を損ねていた。 「あまり期待するな。どうせ俺の事を知れば出て行くのだから」 「旦那様。それは」 「気が失せた……もう要らぬ」 そう言って彼は葡萄酒の瓶を持ち自室へ消えた。悲しい彼の背中を坂上は肩を落として見ていた。 その頃、光子は赤司が使用した風呂場の掃除をしていた。 「ここにいたのね。光子。お前は食器洗いをやりなさい」 「はい」 「今夜はそれでお終いです。明日は夜明け前に起きない」 「承知しました」 そんな南田はあくびをしながら風呂場から出ていった。 ……お疲れなのね。私も初日で疲れたけれど。 納得しながら光子は赤司が脱いだ服を籠に入れ、これを持って立ち上り、風呂場内の最終確認を目視していた。 「水の栓良し、窓の鍵良し!さて、電気を消して……」 パチとスイッチでを押し消灯した光子は戸に向かった。 「お」 「え、きゃああああああ!」 開いた戸の向こうにいた男性の胸にぶつかった光子は、驚きで腰を抜かし床に座り込んだ。 「なんだお前は?」 「()たた……だ、旦那様?す、すみません」 突然の悲鳴に赤司も心臓がバクバクした。そして座り込んだ新人女中に戸惑っていると、ここに足音がした。 「旦那様!どうされましたか」 「坂上。俺は服に財布を入れていたことを思い出して取りに来たんだか、こいつが騒ぎ出して」 「申し訳ありませんでした」 ……だって。暗闇で足音も無く立っているんですもの。 情けない光子はよろよろと立ち上がり、平謝りをした。 「すみません、お財布はお届けするつもりでした。あと。懐中時計とこの飴玉もポケットに入って」 「よ、寄越せ!」 光子は彼の私物を自分のハンカチで包みおずおずと差し出した。頬を染めた赤司は奪うように取り戻した。 「まったく!失礼な娘だ」 「すみませんでした」 「お、俺に顔を見せるな!」 「はい……」 小さくなって謝る光子に彼は背を向けた。 「さあ、旦那様、お部屋に参りましょう。光子さんは仕事に戻りなさい」 「はい……」 坂上は気にするなと笑みを浮かべ赤司を連れて行った。光子は間近で見た彼にドキドキしていた。 ……あれが旦那様。そうか、いつも怒っているのね。 そういう人なのだと光子は受け止め、夜の家事へと向かっていた。 ◇◇ 「しかし。俺を見て悲鳴を上げるとはけしらかん」 「まあまあ。まだ初日ですし、さあ、明日は仕事ですぞ」 彼を休ませようと坂上は彼を自室で誘った。部屋に彼を入れた坂上は酒のつまみを持ってくると言い、部屋を後にした。 ……まったく。腹ただしい。ん。 気が付けば興奮のあまり彼女の白いハンカチまで持ってきてしまったことに彼は気が付いた。 夜の部屋の照明の下、白いハンカチが彼にはまぶしく見えた。 ……M・Sか。あの娘の名前なのかな。 刺繍をそう読んだ彼の背後から坂上が入室した音がした。 「燻製しかありませんでしたが」 「爺。あの娘の名は何というんだ」 「ええと。苗字は忘れましたが、光子さんです」 「光子……それでMか」 思わずハンカチを彼は畳んだ。そして小さなグラスの洋酒を飲んだ彼はベッドに入ったが、この夜も熟睡できず朝を迎えた。 そんな彼が朝食を済ませた時、同僚の本牧が迎えに来た。 「まあ本牧様、おはようございます」 「お、おはようございます」 軍服姿の美麗な本牧がやってきたので南田は嬉しそうに出迎えた。 「旦那様は今、お越しになります。それにしても良い天気ですね」 「え、ええ」 「昨日よりも風が強いと思いませんか」 「そ、そうですね。あの、赤司を呼んでくれないか」 馴れ馴れしく触ってくる南田が苦手な本牧はそう声を掛けて玄関から離れた。その時、ふと庭の方で音を確認したので気になり、様子を伺った。 ……へえ、新しい女中か。 春の南風の青い空の下、梅がほころぶ庭にて若い娘は白いシーツをてきぱきと干していた。そよ風に彼女はどこか楽しそうに仕事をしていた。 「おい、待たせたな」 「あ、ああ」 「どうした?ああ、あの新人か」 光子を見ていた本牧に赤司は思わず髪をかき上げた。 「あの女、夕べ俺を見て悲鳴を上げたんだぞ」 「ふふ、お前が悪いんじゃないか」 「うるさい。行くぞ」 どこか恥ずかしそうに彼は本牧と出かけて行った。その後、光子は南田の細かいこだわりを素直に受け止め家事をこなしていた。 「雑巾がけは、必ずこちらよ。この向きで拭いてから最後にこの向きで拭くのがこの屋敷の決まりだから」 「承知しました……あの、私、一度洗濯物を見てきます」 この場を一旦逃げた光子はそう言うと庭に出て、洗濯物が飛ばないように確認していた。 「光子さん。どうですか。この屋敷は」 「坂上様」 心配顔の老執事に光子は彼に向き合った。 「すみませんでした。夕べは旦那様に驚いてしまって」 「問題ありませんよ。それよりも。この屋敷のやり方は」 ……南田さんのこだわりを心配しているのね。 彼女は本気で熱心であるが、無意味な事のように光子は感じていた。 「若い君にはその。面倒かもしれないが」 「大丈夫です。勉強になりますので」 「……申し訳ない。本当に」 そんな坂上は足を痛そうに引きずり屋敷に戻って行った。これが気になったが光子は洗濯物を乾くように干し直していた。 ……大きなシャツ。旦那様の。 白いシャツを見ながら光子は赤司を思い出していた。風呂場で出くわした時、彼が猫のようにびっくりしていた事に笑みがこぼれた。 「ふふふ。それにしても、あんなに怒ることないのに、ふふふ」 悲鳴を上げた自分が悪いとは思ったが、飴玉を受け取った彼が恥ずかしそうに怒っているのが面白かった。 ……とにかく。旦那様の様子を確認しなくちゃ!さて、計画を練りましょう。 青い空に靡く白いシャツは、光子のこれからを応援するかのように眩しく光っていた。 三「戸惑いの夜」完
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