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四 眠れぬ屋敷
「光子さん。主治医の湯川先生です」
「初めまして、佐藤光子です」
「どうも。湯川です」
赤司を昔から知るという医師はさっそく光子に今までの症状を語った。
「この病は症状から『夢遊病』だと思っています。私も資料でこの病を調べているのだが、成人男性の場合は、家族も秘密にするようでなかなか実態がわからないのだよ」
「そうですか、ではお薬はどうされているのですか」
そんな赤司には睡眠薬で対応していると医師は語った。
「朝まで眠れば、夜の奇行は無いからね。でもこれでは根本的な解決にならないのだよ」
「確かにそうですね……では、まずは健康観察からですか」
光子の言葉に湯川医師は帳面を出した。これは医師が赤司について調べて欲しい内容が記されていた。
「それを読めばわかるが、検温など一般的なものと、彼の様子だね」
「はい……これをやってみますね」
「あの、すみませんが。来客のようなので、私は席を外します」
坂上が去った部屋にて医師は密かに話し出した。それはこの屋敷の使用人の話だった。
「君が来てよかった。私も坂上さんや南田さんから病状を聞くだけなので本当の事がよくわからなかったんです。だからこれからは医療従事者の君の目線で、どんどん気が付いたことを教えて欲しいんだ」
「湯川先生、私もその事で相談があったのです」
光子は南田の規則で思うような看護ができないかもしれないと話した。
「夜も早く寝るように言われるし、赤司様の寝室にも入れないのですが、少しづつやってみます」
「わかりました。とにかく実情の把握に努めましょう」
こうして打ち合わせを済ませた光子は、医師が帰った午後、屋敷の使用人に挨拶をした。
「光子。紹介します。お前の先輩の女中のキイとヤマです」
「初めまして。佐藤光子です」
「どうも」
「よろしく」
三十歳代の女中の二人は疲れた顔で挨拶を返してくれた。紹介した南田は誤魔化すように笑った。
「ホホホ。二人は掃除の仕事で疲れているのです。さあ、仕事に行きなさい」
「はい」
「失礼します」
二人は重い足取りでこの場を後にした。南田は彼女達を背にし、光子に屋敷内の家事をやるように指示をした。
「何度も言うけれど、絶対旦那様の部屋だけは入らないでね」
「はい」
……どうしてそんなに言うのかしら。
夜暴れる赤司の寝室には何か秘密がありそうだが、入室を禁じられていた光子はひたすら掃除を続けていた。
……それにしても静かだわ。あのキイさんとヤマさんも見かけないし。
赤司が出かけた午前中の屋敷は、静かで光子しかいないような気がした。そんな彼女は廊下でネズミが通り過ぎたのを見てしまった。思わずネズミが入った部屋の扉を開けた。
……あれ?ここは。
そこは小さな部屋であり奥にはベッドがあり、そこでは南田が眠っていた。時はもうすぐ正午という明るい部屋で彼女は昏々と眠っていた。光子は起こさないようにそっと部屋をでた。
……お昼寝にしては、やけにぐっすり寝ていたわね。
この屋敷では使用人達は遅い朝食を取るため一日二食の形式であった。このため、三時のおやつの時間まで光子は独りで屋敷を清掃していた。
「ふわああ。おお。綺麗になりましたな」
「はい」
……坂上さんも寝ていたのね。
あくびと寝ぐせの坂上を知った光子は、彼も仮眠していたと思った。
……もしかして。昼間はみんな寝ているのかしら。
屋敷が静な理由をそう推理したが、それを聞く勇気もない光子は、夕刻、赤司が帰ってくる音を耳にした。
……ええと。姿を見せるなと言われていたものね。
風呂場のびっくり事件の時、光子は赤司に『顔を見せるな』と言われていた。これを真面目に守っている光子は赤司の声と足音から逃げるようにそっと階段下の物入れの影に隠れた。ここを彼は通過した。
「ところで。あの娘はまだ辞めていないのか」
「はい。なかなか見どころがあります」
「別に、他に行くところがないだけだろう」
……私の事を話しているのね。
自分が辞める事を望んでいるような彼の会話に光子は哀しくなった。
暗闇の中、光子は目を伏せた。思わずため息は哀しい色になった。
……でも、しっかりするのよ。それに他に行き場はないのは本当だもの。
実家も無く、お金もない光子には選択肢などなかった。そんな彼女は密かに足音とは逆の玄関に行き、彼が履いていた革のブーツの手入れをした。
……それにしても何て大きな靴でしょう。お父様よりもずっと大きいわ。
実家時代を想いながら光子は湿気を取るために大きな靴の中に新聞誌を丸めて入れ、靴の外側は古布で拭きとり、靴墨を塗って手入れを終えた。
玄関の戸締りも確認した光子は、この流れで屋敷中の戸締りを確認していた。
◇◇
「赤司様。本日はご実家と、お茶会のお誘いの手紙が届きましたが」
「……実家の手紙は後で読む。それと茶会はすべて断っておけ」
「ですが。一度は出向かないと」
男爵の赤司は独身だった。今は宮内庁警備の軍人をしているが実家は鉄の輸入の会社を経営しており、三男の彼も会社役員として会社を経営していた。
身長高く見た目は好青年である赤司は武闘派である。そんな彼は夜会にて泥棒を取り押さえた経験がある。その時の立ち回りがあまりにも派手で美麗であったため、目撃した華族令嬢から好意を抱かれるようになってしまっていた。
「ですが旦那様。いつまでも独身では居られませんぞ」
「もういい!一人にしてくれ」
実家からの手紙だけを手にした彼は自室に入った。封を開けるとやはり見合いを進める内容の文章だった。母のお節介が重い彼は手紙を机に放るとベッドに腰かけた。
……さて、本でも、ん?
読もうとした本の下には白いハンカチがまだあった。
……これがずっとここにある、ということはあの娘は俺の部屋には入っていないのだな。
さすがの赤司もあの娘が来てから屋敷中が綺麗になっているのは気が付いていた。しかしなぜか彼の部屋だけがまだ清掃が行き届いていない事が気になっていた。
……意地悪か?俺が風呂場で驚かせていたから。
彼はゴロンと寝ころび天井の模様を見てだんだん悔しくなっていた。
……それに。まったく姿を見せないし。俺を避けているのか?
さらにこの日の仕事でもうっかり失敗をしてしまった彼は、それを忘れようと部屋にあった洋酒を煽るように飲み、そして寝た。
「うう……うう」
真夜中、彼はうなり出した。この声を部屋の外で確認した聞いたキイは急ぎ、坂上を呼びに行った。
「発作が起きました!」
「またか?連日じゃないか」
急ぎ彼の部屋に戻った二人は、目の前の光景に驚いた。自室で彼は紙を食べていた。坂上は血相を変えて赤司を止めた。
「旦那様、それは食べ物ではありま、あ!」
「坂上さん!大丈夫ですか」
赤司に突き飛ばされた坂上にキイは駈け寄った。
「私は良いのだ。それより部屋を閉めるのだ」
「は、はい」
二人の声も聞こえていないような赤司を背に二人は逃げるように部屋をでた。そして扉の外で廊下にあった飾り棚を必死に押した。
「く、重い」
「もう、すぐ、だ……」
二人は重い棚をなんとか扉の前にずらした。扉を塞いだこの瞬間、内側からノック音がしてきた。
「ど、どうします」
「静かに!」
その音はトントンと優しい音で、いつしか聞こえなくなっていた。これに二人は安堵した。
「大丈夫みたいですね」
「ああ」
これで今夜は安心だと、二人は扉に背を向けた。
……ドン!
「え」
「まさか」
赤司が諦めたと思っていた二人は真っ青になった。
……ドンドンドン!ガンッ!
「さ、坂上様……」
「こ、これは」
真夜中の破壊を意味する音にキイは恐怖で涙し、坂上は必死に手を合わせ願い出した。
「ううう……もうやめて」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。神様。仏様!どうか、お静まりください。どうかどうか」
もはや素手ではなく椅子などで扉を叩く音が響いた。しかし、彼の力では扉は開かず叩く音はやがて聞こえなくなった。
「そろそろ開けてみるぞ。せーの」
「本当に大丈夫なのですか……」
恐怖であったが、二人は飾り棚を元の位置に戻し、赤司の部屋の扉を開けた。
夜明け前の部屋は真っ暗であったが、めちゃめちゃの部屋の長いすで彼が寝ているのだけは分かった。
「片づけは後で良い。お前は部屋に戻りなさい」
「は、はい」
破壊された室内を恐怖で半べそのキイは逃げるように自室へ戻った。赤司の寝息の部屋の扉を坂上は閉めた。
……なぜこんなことになってしまったのだ。
若き主の異変に幼い頃から使える執事は、ただ悲しく夜が終わるのを待っていた。
◇◇
「おはようございます!」
「おはよう……」
「ふわ。おはよう」
……キイさんもヤマさんもお疲れのようね。夕べも何かあったのかしら。
一人奥の部屋で寝ている光子は、元気いっぱいで屋敷の掃除を始めていた。
「南田さん、おはようございます」
「……ええ」
そんな南田は目の下にクマを作っていた。彼女は今朝は離れの部屋のカーテンを洗えと言い出した。
「はい。早速やります」
「あれは高価なカーテンなのよ。丁寧にね」
「かしこまりました」
「私は旦那様の部屋の模様替えをします、決してこちらには来ないように」
「はい」
そんな光子は命令通りカーテンを外し、洗っていた。すると声がした。
「もう嫌よ。こんなの耐えられないわ」
「仕方ないわよ」
……キイさんとヤマさんの声だわ。
二人は光子がいる事を知らず、話をしていた。涙ぐむキイは興奮気味で話していた。
「じゃあ、どうすればいいのよ!ずっとあの狼の番をしないといけないの?」
「ずっとじゃないわ。今は御薬を飲むようになっているらしいから。そのうち良くなるわよ」
……旦那様のことね。
「ね、だから頑張ろう?ね」
「ううう。私は私は」
涙で興奮気味のキイを慰めながらヤマはこの部屋を出て行った。光子は深呼吸をし、思考を巡らせながらカーテンを洗った。
そんな光子がカーテンを洗い終えたのは正午近かった。遅くに食事を一人で食べた光子は食器を洗いながら一つの答えをだした。
……とにかく。私以外の人は夜、起きているってこと。そして旦那様は暴れているってことね。
日中の屋敷が無人のように静寂なこと、そしてキイとヤマの様子から光子そう推理した。やがて食器を洗い終えた光子はいつもの清掃を進めた。
◇◇
「ただいま帰った」
「お帰りなさいませ。お食事はいかがされますか」
「早めにしてくれ。今朝は何も食べなかったので、腹が減ったぞ」
夕べ紙を食べてしまった赤司はその事を覚えていなかった。そんな彼はそれを知らずに満腹と言い出し、朝食を食べずに出勤していた。
その自覚が無かった彼は坂上を前に夕食を始めた。
「ところで。今朝は寝坊してしまって説明を聞く時間がなかったが、なぜ俺の部屋はあんなに滅茶苦茶なのだ?」
「そ、それは」
「遠慮せず申せ」
痛々しく顔に傷がある坂上は事実をありのまま話した。
「紙を食べた?俺がか」
「はい。ご実家からの手紙でした。そのせいでお腹が空いていなかったのだと思います」
「信じられん」
……全く覚えていない。
彼は思わずナイフとフォークを置いた。
「なぜ俺はそんなことをしたのだ」
「医師に確認しましたが。あいにく出かけておりまして」
「いやいい、そうか、紙を食べたのか」
自分の事なのに全く自覚がない赤司は、坂上の怪我を重く見た。そして今まで拒否していた薬を寝る前に飲むことにした。
「旦那様、今夜の寝ずの番は私でございます」
「そ、そうか」
「あの」
寝る前の部屋にやってきた南田は頬を染めて彼を見つめた。
「良ければ、私、お側におりましょうか」
「いや、その、それはちょっと」
南田はなぜか胸のボタンを緩めて彼に迫っていた。
……勘弁してくれよ!
「ちょっと手洗いに行ってくる」
「私も参ります」
「いや?それは遠慮してくれ」
彼女から逃れたい赤司は手洗いに行き、そして顔も洗った。
……何なのだあの女は。
南田は赤司の乳母の娘であり、昔から彼の近くにいた娘であった。赤司としてはただの女中のつもりであるが、最近、こうして接近してくることが多くなっていた。
……勘弁してほしいよ。
「あ」
「なんだお前か」
光子は寝る前なのか、浴衣を着て普段結んでいた髪を、長く垂らしていた。
彼女は自分を見るとびっくりして頭を下げた。
「ここで何をしているのだ」
「すみません」
……顔を見せないようにしていたのに。
彼に出くわしてしまった光子は、去ろうとした。これを赤司は呼び止めた。
「待て。何をしていたのか説明しろ」
「そ、それは」
光子は寝るために敷いた布団に入ったら、床下から物音がして眠れないと話した。
「怖いのです。ですので坂上さんに確認をお願いしようと思いまして」
「……どうせネズミでもいるのだろう、どれ」
不安そうな光子を見た赤司は坂上を呼ぶまでもないと彼女の寝室に入った。簡素な畳の部屋には布団が一組敷かれていた。
「どこだ」
「そこです」
赤司は光子が言う通りに敷布団に耳を付けた。
「ああ。確かに床下でなんかガリガリ言っているな」
「そうですよね……モグラかしら」
本気でそう話す光子を彼は笑った。
「ふ、モグラが音を立てるはずがないだろう……ん。音がそっちに行ったぞ」
「この下ですか」
赤司の指示で光子も敷布団に耳を付けた。畳に敷かれた布団に寝転び光子も耳を澄ませた。対面で寝そべった光子に対し、赤司は目を瞑って音に集中した。
「お。今度はこっちに来た、ん」
「スー……スー」
「お前」
赤司が目を開けると光子はすやすやと眠っていた。赤司は眠っている娘に胸がドキとした。
……寝たのか?まあいい。俺も帰るとするか。
彼はそっと光子に布団を掛けた。そして立ち上がり灯りを消した。退散しようとしたが、再び彼女の寝顔を見つめてしまった。
……こんな顔をしているのか。
思えば光子の顔をよく見ていなかった赤司は、彼女の寝顔を見つめた。
月明かりだけの夜の部屋。白い肌に伏せられた長いまつ毛と、健やかな寝息。それをよく見たいと思った赤司は、布団に座り顔に掛かる黒髪を直した。
……お前、うるさくて眠れなかったんじゃないのか。ん、またガタガタ音がするな。
音が大きかったので赤司は布団に耳を当てた。しかし無邪気に眠る光子に思わず微笑んだ。
……気持ちよさそうに、ふふ……スースー。
赤司は睡眠薬のせいもあり、彼もここで寝落ちした。畳の部屋に敷かれた一組の布団で、二人は仲良く眠りについた。
……うう。重い、うう。
「え」
夜明け。光子は他者の寝息で目が覚めた。その人物はまるで彼女を抱くように眠っており顔は真横にあった。
……耳元の寝息がくすぐったい!?ど、どうしよう。とにかく、ここから出ないと。
まず今の体制を彼女は確認した。彼は光子の上に腕を伸ばし、抱きしめていた。彼女はこの腕をそっと退かし、彼から離れようとした。
……ん。引っかかっている?
よく見ると光子の腰のひもの端を彼が体で踏んでいた。光子は彼を起こさないように必死に紐を引くと、ようやく彼から離れた。
……しかし。良く寝ているわ。
いつも怒っている顔の彼であるが、今は幸せそうな顔で眠っていた。そんな彼に布団を掛けてあげた光子は着替えを持ってそっと部屋を出た。
……南田さんに見つかる前になんとかしないと。
しかし廊下を出た時、南田に出くわした。
「あ。光子。旦那様を見なかった?_」
「え、あのその」
「夕べからいないのよ。お前も探して」
「はい、あ、あのですね」
「そうだわ!庭の土蔵をまだ探していなかったわ!」
興奮の南田は光子の話も聞かずに走って行ってしまった。この様子に光子はドキドキした。
……とにかく。旦那様を起こした方がよさそうだわ。
光子はまた部屋に戻り、寝ている赤司を起こした。
「旦那様、起きてください」
「ん……」
ここで光子は部屋の障子を開け、優しい朝日を彼に浴びせた。そして彼の首元を手でそっと触った。
「朝でございます。起きる時間ですよ」
実家時代。弟をいつもこうして起こしていた光子に彼も優しく目を開けた。
「……何時だ」
「それよりも。みなさんが旦那様を捜しています」
「え……そうか、ここは」
寝床の布団の側で正座している彼女は不安そうな顔だった。どこか寝乱れた浴衣の胸や足が白く見えた。
……寝起きの女ってこんなに綺麗なんだな……だが。
光子の長い髪は寝ぐせで爆発していた。
「ふふふ。お前、髪がめちゃめちゃだぞ」
「それはどうでも良いのです!旦那様、今の内にここから出てください」
光子は寝ている彼の肩を必死に揺すった。
「お願いです。私は首になります」
「わかったよ。今起きる」
……確かに。俺がここにいてはまずいな。
自分も彼女も困るこの状況。彼はやっと起き上がった。
「わかった……お前は廊下を見張れ。俺は黙って部屋に戻るから」
「はい!今、確認します」
真顔の光子は両手に拳を作り力強くうなづいた。そして彼に背を向けて部屋の外を確認していた。必死にきょろきょろしている光子の背中を彼は面白そうに見ていた。
……面白い娘だな。
細い肩、しなやかな腰、浴衣から覗く腕は白く若さで光っていた。
「旦那様!今です。坂上さんはあっちに行きました」
「おう。任せておけ」
赤司は光子の背にそっと触れ合図をし右手に向かった。彼は足音無く、白い部屋着で朝まだ暗い廊下に消えて行った。
……ああ。ドキドキした!
彼の寝息がまだ耳に残る光子は、ため息をつきへたり込んでいた。
振り返ると布団があった。
……ここで、二人で寝てしまったのね。部屋がまだ旦那様の匂いがする。
温もりが残る布団の上で、光子は彼の香りに染まった頬を押さえていた。
◇◇
「やれやれ、一体どこに行ったのやら。あ」
「……爺、今何時だ」
「赤司様?どこにいたのですか」
坂上がいない隙にベッドに飛び込んだ赤司は寝たふりをしていた。あくびの演技を見せた彼はゆったりと寝返りを打った。
「ふわあ。ここにいたに決まっているだろう」
「で、ですが」
居なかったはずの彼がベッドにいたことが信じられない爺やは、目をこすっていたが、赤司は起き上がった。
「さて、起きるか。今朝は目覚めが良いぞ」
うーんと伸びまで見せた彼は、屋敷中の人間を欺き朝食を取った。そしていつものように出勤しようと玄関を出た。同僚の本牧がそこにいた。
「おはよう。なんか今朝はすっきりしているね」
「ああ。そうなんだ。すまない!ちょっと待ってくれ」
迎えに来た同僚を待たせた赤司は、庭で洗濯物を干している彼女へ走った。
「おい。そっちは大丈夫だったか」
すると光子は恥ずかしそうに俯いた。
「はい。おかげさまで何とかなりました」
「そうか」
それ以上何も言う事が無い二人の見つめ合う視線の糸は、夕べの事を思い出した。
……この人と一緒に寝てしまったんだわ。
……俺はこんな初々しい娘と寝てしまったのか。
互いの恥ずかしい気持ちは朝の風で揺れていた。
「……では、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ」
……何か面白くないな。
彼女に追い出されるような気がした彼は、眉をひそめた。
「そうだ。俺が帰るまであの床下の音の原因を探っておけ」
「え」
「帰ったら聞くからな。では参る」
……あ、笑った。
「は、はい、どうぞお気をつけて」
いつも怒っている彼は八重歯を見せご機嫌で出かけて行った。彼の嬉しそうな笑みを見送った光子は胸の鼓動の意味を知らず、春の日差しに消えていく彼の背中をずっと見ていた。
四「眠れぬ屋敷」完
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