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浅間山噴火、最大の被害
(一)凄惨な現場
「ウッッ…」
「…これはッ…!?」
奉行所から幸手に向かっていた一行は、山間にある小さな村で目を覆う惨状に遭遇した。簡素な山村の暮らしは、降り積もる浅間の火山灰の中で、血に染まって息絶えていた。
村人が、いない。
正確には、身体の残っているものは、ひとりもいない。しかし飛び散った血痕と散らかった白骨は、そこで何が行われたのかはっきりと物語っていた。
「山賊、盗賊の類か?」
「人肉までは、喰いますまい。」
「けものか。」
松山惣助は、上役がかすかに顎を動かしたのを察した。調べろ、という意味だ。
惣助は辺りを見廻し、血だらけの家屋の壊れた戸をよいしょと持ち上げると、陽にかざす。巨大な引っかき傷が見える。
「…熊…と思われます…!」
一隊の全員がその戸を囲む。
「大小の爪痕がある…一匹ではないな。」
「群れが襲ったのでしょうか。」
「熊が数匹で乗っかれば、戸板などひとたまりもないな…一軒づつ、群れに次々に襲われたのだろう。」
「手斧ぐらいでは、熊は防げんのだな。」
惣助の上役は、部下たちの話を黙って聞いていたが、すぐに立ち上がり指示を出す。
「斧は拾っておけ。持ち帰って報告する。我々は今すぐここを離れ、今朝出立した村まで戻る。急げ。」
血にまみれた手斧を拾い上げた侍は、震えるのをこらえていた。江戸の奉行所の役人は、都会っ子だ。心中のあとやら、土左衛門ぐらいは見たことがあっても、熊が村を滅ぼすなんて凄惨な現場は初めてだ。
一行は来たときの倍の速さで今来た道を戻ってゆく。全員が帯刀しているものの、熊と鉢合わせれば誰かが手傷を負う。そうすればその血の匂いで、さらなるけものが集まってくるだろう…みな気が気でない。
「これは江戸から、弓隊も呼ばねばならぬな…」
誰ともなくつぶやく。弓隊とは鉄砲隊のことである。徳川吉宗公が弓を愛好したので昨今の江戸では弓道が流行してはいるものの、じっさいの戦いとなれば火縄銃がないと話にならない。
やがて一行は昨晩宿をとった村へたどり着いた。
「お早い…お戻りで?」
村長が不審そうな顔をして、今朝送り出したばかりの一行を迎える。
「熊だ。」
「熊…出ましたか。お怪我はないですか?」
「この先の村は、みなやられておる。ひとりも残らず。」
「…」
村長が顔色を変え、マタギを呼びましょう、と言う。
「たしかに、このところ、けものが群れをなして村を襲うという噂はございます…しかし、このあたりはまだ山の入り口の人里でございますし、もっと山奥の話だと思っておりました…」
「人を食い尽くして、麓へ麓へと逃げて来ておるのだ、けものどもが。あの村から先はおそらく、どの村も全滅しているだろう。次はこの村に下りてくるぞ。」
惣助、と上役が呼ぶ。
「はっ。」
「おぬし、熊がどうやって家に入り込むか、説明してやれ。」
「はい。」
惣助は熊が入り口の戸を爪で引っ掻き、それで開かなければ体当たりするらしい、と説明した。
「熊が何頭も体当たりすれば、どんな家もひとたまりもない…」
「まずは村の中心にある、この家の戸口に熊よけ柵を作りましょう。突進してきた熊に刺さるように、尖った丸太を3本組み合わせて地中から突き出させておくのです。」
「なるほど…」
「明るいうちに作業をしてしまいましょう、さあ。」
自分の村は、自分で守る。それは山村の掟だが、続く地震と浅間山の噴火で、さらに熊とは…村人の心はすっかり疲れていた。
惣助の隊は、万が一の用心のために、もうひとつ手前の村まで引き返すことにした。
しかし熊撃ちのマタギを呼びにやっても、いつまで経っても現れない。呼びにやった村人が、青い顔をして引き返してきた。
「熊よけの鈴が、道に落ちてた。だけど本人は、どこにもいねぇ。」
ーすでに熊に襲われてしまっているのか…?
「…たくさんのけものが…餓えて…どうしたらよろしいでしょうか…」
取りすがるような村長の目を見て、惣助の上役が静かに言う。
「すまぬが、ずっとこの村をここで守ってやることはできぬ。御役目があるのでな…おぬしらの中に手斧や鍬など、何か戦いに使えそうなものがあるか?」
「それほど使えそうなものは…」
鉄砲が得意な惣助は、ひと晩、ここで村人を守ることを申し出た。
「ならぬ。何かあったらどうする?」
「役人として、村人を見捨てるわけにはまいりませぬ。」
村長も頭を下げる。
「松山惣助さまには、村からお供をつけて隣村までお送りします。どうかひと晩か、ふた晩だけ、お力をお貸しください。」
「うむ…」
「ここで熊を食い止めれば、熊が御一行を追いかけて来るのも防げましょう。」
「そうか…くれぐれも気を付けよ、惣助。」
こうして、惣助はひとり、村に残ることとなった。
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