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 「そうなのよ。受付の森里さんから聞い たのだけどね、保険診療がどんどん厳しく なっているから、いまのうちに自費診療に 特化した分院を建てて、本院の経営を支え ていこうとしてるんですって。物腰が柔ら かでそうは見えないけど、本宮先生、やり 手なのよ。がっちり稼いでるのに、それを 独り占めしないでスタッフに還元してくれ るから院の中も雰囲気がいいんですよって、 森里さん言ってたわ」  「そんなことまで話してくれるんですか」  「ええ。彼女、ちょっとお喋りなところ があるから。それと、これもここだけの話 だけど。院長先生に熱を上げている主婦が 多くて、患者さん同士のいざこざもあるん だって言ってたわ。院長がモテると周りの スタッフも気苦労が多くて大変ねぇ」  『ここだけの話』というフレーズほど 広がりやすく、また、その秘密が守られる ことは少ないのだろう。『人の口に戸は立 てられぬ』というが……きっとこの老婦も、 悪意がないまま色んな話しを拡散している に違いない。  そんなことを頭の片隅で思っていると、 カーテンの中から名を呼ばれ、「じゃあね」 と老婦は笑みを残し去ってゆく。やがて他 の施術室から顔を出した女性スタッフに名 を呼ばれると、裏口を気にしながらも凪紗 はカーテンをくぐったのだった。  老婦の言う通り、凪紗を担当してくれた 女性スタッフも腕が良かった。嘉一がそう してくれたように、痛む場所だけではなく 足首や腹部など、引き金になっていそうな ところを丁寧に解してくれた。  施術室を出て、次の予約を入れて支払い を済ませたところで凪紗は、さて、と悩む。  時刻は六時十五分を過ぎたところだが、 嘉一はまだ戻っていないようだった。受付 の女性にカステラを預けてしまおうかとも 思ったのだが、女性は掛かってきた電話の 応対をしており、さらに新たに訪れた患者 が受付の前に並んでいる。  凪紗はカステラを渡せないまま帰ること も出来ず、仕方なく、老婦が教えてくれた 席に座り待ってみることにした。  それからほどなくして、ちょこんと隅に 身を縮めるようにしてソファーに座ってい た凪紗の耳に、車のエンジン音が聞こえた。  嘉一が帰って来た。  その音に頬を緩ませると、凪紗は立ち上 がり化粧室の手前から裏口を見やった。が、 ガチャという音がして裏口の戸が開いたか と思うと、タイミング悪く用を足し終えた お爺さんが化粧室から出てきてしまう。  「あっ」  そして嘉一の横顔が見えたと思った瞬間、 開いた化粧室のドアに目隠しをされている 間に、嘉一の姿がカーテンの向こうに消え てしまった。
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