314人が本棚に入れています
本棚に追加
/218ページ
「実は一年前からきみを知ってた。一年前の講師コンサートでさ。きみの演奏を聴いてたんだ」
「え?」
「本当はさ。どんな女なのか、顔を見てやるだけのつもりだったんだ。圭吾さんが愛美に隠れて付き合っている女がピアノ講師っていうのを知ったから。で、ちょうどコンサートがあった。花のワルツを演奏するきみがいた」
彼は一年前を思い起こしているのか、少し遠い目をしながら、フフッと口元を緩めた。
「きみの演奏を聴いた瞬間、電流が走ったよ。俺がずっと聴きたかった音をさ。きみは奏でたんだ。衝撃だった」
「ずっと、謙太郎さんに近づきたかったから。晴翔から似ているって言われるのは嬉しい」
「俺だけじゃないよ。マスターにも笹原さんにも言われてるでしょ?」
「うん」
晴翔は「懐かしかった」と小さく笑った。
「こんな奇跡というか、偶然があるんだって思ったよ。本当はなじってやろうと思ってた。どういうつもりなのか、詰め寄ってやろうって。でも、そんなこと一瞬で吹き飛んだ。俺はね、あの瞬間にきみに恋に落ちたんだよ」
「晴翔……」
「ごめん。俺、本当はこういう嫌な奴なんだ」
「ううん」
もしも私が彼と同じ立場だったら、きっと同じことをしたと思う。
なじるとか、詰め寄るとかまではしなくても、どんなやつだろうって一度は見たかったと思う。
「実はその頃からパリに行く話はあったんだ。アニキを亡くしてから俺は腑抜けだったから。一度、ゆっくり勉強し直さないかって話を貰っててさ。でも、なかなかふんぎりつかなくてね。きみと一緒にいることも、演奏することも楽しくなってさ。そうしたら余計に行けなくなってた」
「行くって決めたのはどうして?」
そこまで言うと、晴翔は再び息を吐き出して、フッと笑って真っすぐに私を見つめた。
「きみを縛りたくなかったんだ。俺のエゴで縛りつけたくなかった。俺の夢にきみを巻き込みたくなかった。デュオの件もだよ。きみの人生を大きく変えることになってしまう。だから断った。もちろん、俺は受けたかったけどね」
晴翔の夢。
大好きな兄を亡くして叶えられなくなった夢。
「私はビジネスパートナーにはなれないから断った」
ビジネスパートナーにはなれない。
だって、その前に私は彼のことが好きだったから。
仕事だけの関係でいるなんて私には到底、無理な話。
最初のコメントを投稿しよう!