新月散歩

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イタリアン・バル【チリエージョ】の2階。 廊下を挟んだ事務所の向かいには小さな厨房があり、それと同じ空間に、数人で飲食できるテーブル席と仮眠用のソファーが置かれている。 閉店後、その部屋の一番奥。 窓の近くに置かれた三人掛けのソファーに座った僕は、入荷したばかりのワインを飲みながら、ビルの合間から見える狭い夜空を眺めていた。 ここからでは街の明かりが眩しくて、星を見ることができない。 一人で見ていたら寂しくなるところだったが、今は僕以外にもう一人いるから寂しくはない。 寂しくはないが、話し相手になってくれることはなさそうだった。 なぜなら彼は今、僕の膝枕ですやすやと眠ってしまっているからだ。 大学生のアルバイト店員、秋津綾介(あきつりょうすけ)。 これが自分の恋人ならこういうシチュエーションもいいと思うが、残念ながらこの子はそうではない。 可愛い寝顔を見せながら、今まさにこの子は無自覚に僕を厄介ごとに巻き込もうとしている。 「なんでこんなことになってるんだ?」 ああ、ほら、面倒くさいことになりそうだ。 僕の目の前には、嫉妬で今にも殴りかかってきそうな顔をした男が立っている。 この嫉妬全開の男は浅山明彦(あさやまあきひこ)。 店のオーナー兼総料理長で、今僕の膝枕で眠っている綾介の恋人だ。 僕にはその気がないのを知っているから、ギリギリのところでなんとか抑えている。 そんな感じだった。 今日は2人で新作メニューの試食をしながら、それに合うワインやドリンクを考えることになっていた。 だが、今日はやめておいた方がよさそうだ。 僕は気持ちよさそうに眠る綾介を起こし、軽くからかって遊んだ後、修羅場と化しそうな空間から素早く脱出した。 店の裏口から出て、さて晩御飯はどうしようかと考えながら店の裏にある駐車場を歩いた。 明彦が作った試作品を食べて帰るつもりでいたから、口と腹が完全に明彦飯を受け入れる気満々の状態で、食べたいものを思い浮かべることができない。 「あ、しまった」 普段は車通勤の僕だが、呑むかもしれないと思って今朝は車を置いてきたのをすっかり忘れていた。 マンションまでは歩いて帰ろうと思えば帰れる距離だが、1日中ほとんど立ったままで働いた後の30代前半の脚にはなかなか辛いものがある。 タクシーを拾おうかと考えながら駐車場を抜けたところで、ガードレールに腰を下ろした背の高い男の存在に気がついた。 「塩田……」 僕が立ち止まったままでいると彼は徐に立ち上がり、長い脚をゆったりと動かして僕の目の前に立つと、無表情のまま「よう」と短く声をかけてきた。 身長181センチある僕を上から見下ろしてくる男、塩田は、大学の頃からの知り合いで10数年の付き合いがある。 長い付き合いの中で、他人にはあまり見せたくない姿をこの男には何度も晒しているし、誰にも話したことのない心の内を吐露したこともあった。 そんなことがあったから、この男に見下ろされると全てを見透かされているような気がして、僕はいつも恥ずかしくてたまらなくなる。 この男の前から、なにがなんでも逃げ出したくなる。 「ちょっと付き合え」 塩田は有無を言わさぬ雰囲気でそう言うと、僕が返事をする前に、僕のマンションとは逆の方向にさっさと歩き出してしまった。 「あ、おい」 無視して帰ってしまえばいいのに、僕の足は自然と塩田の後を追うために動いた。 駅とは反対側、区役所と、老朽化で取り壊しが決まっているコンサートホールの間。 街灯が少なく、街路樹が生い茂る暗い歩道に入ると塩田は立ち止まり、数歩後ろにいる僕に手を差し伸べてきた。 「なに」 距離を保ったまま僕も立ち止まると、塩田は一歩踏み出して僕の手を取り、やや強い力で引っ張った。 乱暴に引っ張られたわけでもないのに足がもつれ、不本意にも塩田の胸に倒れ込む形になった。 「珍しい、今日は素直だな」 僕は無言のまま、腰のあたりで怪しい動きをしている塩田の手を叩き落とし、厚い胸板を渾身の力を込めて押し返した。 「痛え」 全然痛くなさそうに、ニヤリと笑って塩田が言った。 「何すんだよ」 「外で変なことを……って、おい」  僕が言い終わる前に、叩き落としたはずの手が再び腰のあたりで怪しく動き始めた。 「こんな時間にこんな暗い道、誰も通りやしねえよ」 僕は身を捩りながら抵抗したが、先程とは違い、叩こうが押し返そうが塩田の逞しい腕や胸板はビクともしなかった。 「そんなに暴れんなって、まあ、ちょっと上、見てみろよ」 「は?上?」 なんなんだよと言いながら上を見ると、そこには夜空に輝く星々が浮かんでいた。 「うわ、え、星?」 「新宿まで歩いて行ける距離なのに、すげえだろ」 「店からは全然見えなかったのに」 「あの辺は街が明るすぎんだよ。このあたりは古い施設が多いから、街灯や看板が少なくて結構見えるんだ。冬になればオリオン座を眺めることができる」 僕はしばらく、塩田の腕の中に囚われているのも忘れて星空に見入っていた。 「今日は月が出てないから、いつもよりもよく見える」 まるで、いつもこの星空を見ているような言い方だった。 星月夜ってやつだなと、塩田が静かな声で言った。 いつの間にか僕は、星空ではなく、塩田の顔を見上げていた。 「なんだよ」 言い方はぶっきらぼうだが、塩田の顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。 「暴れるのはもう終わりか?」 僕を見下ろす塩田の目が、いつもの冷ややかなそれと違って温かく、見ているだけで鼓動が早くなっていく。 「どうした、ずいぶん大人しいな」 僕はそれに返事をせず、目の前で弧を描く唇にそっと自分のそれを重ねた。 軽く合わせただけでは物足りなくて、もう一度唇を重ねようとしたところで、大きな手が僕の尻の肉を鷲掴みにした。 「あっ……」 尻を掴まれたまま引き寄せられ、僕の腰と塩田の下腹部が隙間なく着いた。 「そんなこと俺にしたらこの後どうなるか、わかってやってんだろうな」 デニム生地の向こう側で、塩田のものが力を漲らせていくのが伝わってくる。 「そんなの、わかんな……、んんっ」 遠慮なく侵入してきた肉厚な舌に、口の中を乱暴にかき混ぜられ、大きな期待とほんの少しの怖さに僕の膝はガクガクと震えた。 自力で立っているのが難しくなり、タイミングよく脚の間に割って入った塩田の太ももに腰を預けた。 軽く爪先立ちになりながら塩田の鍛えられた大きな背中に腕を回し、ここが外であることも忘れた僕は、硬い太ももに跨ったまま、塩田から与えられる濃厚な口づけに酔いしれた。
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