第二夜 槍は手放せど忠は放さず

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「あ……篤実様」 十兵衛は引き留めるかのように篤実の名を口にしていた。 それだけでなく、一歩、彼のにおいの方へと進んで手を伸ばす。十兵衛の大きく厚く、毛皮を纏った手が宙を彷徨うのを、若君がそっと捕まえた。 「ふ……どうした? 十兵衛」 どうしたのだろうか。十兵衛にもわからない。 しかし焦りと恐れが胸の裡で燻っていた。 十兵衛はそのまま若君の手をゆっくりと引き、己の太い腕の中へと導くと始めはそっと、軈てしっかりと抱き締めた。 「貴方様は、立派な若武者に御座います」 「…………」 「御身は、儂が守ります。どうか……お母上のように儚くなられることの無いよう」 「じゅう…べ…え」 「若君のお姿は、この盲の瞼に今も鮮やかに焼き付いておる」 「そうか……そう…か」 ただ抱き締められていただけの篤実が微かに声を震わせながら、十兵衛の背中を抱き締め返した。 「篤実様」 「――十兵衛、(おれ)は……母上を守れなかった…其れ処か、己は…」 「……」 篤実の吐息が乱れ震えている。それ以上彼の言葉は続かなかったが、十兵衛は時折無言で頷きながらら若君の身体を抱き締め直し、背中を撫で、また抱き締め続けた。 およそ二年ほど前、皇后智子(さとこ)がお隠れになった。 四人の王子を設けた彼女の最期は、行き過ぎた断ち物、願掛けにより身を削った物と言われている。 そうまでして何を願っていたのか様々な噂が流れたのだが、何れも噂はうわさ。確証は無いまま時間が過ぎ、民草の悲しみは和らいだが、真相は闇の中にある。 篤実が落ち着きを取り戻し、十兵衛は仕事へと送り出された。 はじめはそのまま家に残ろうとしたのだが、若君が『仕事は仕事であろう』と十兵衛へ大工の元へ行くように強く言ったのだ。 そうして一人家に残った篤実は、じっとしているのも嫌だと朝餉を済ませた碗を洗い、それを終えると庵の外で井戸の水を汲み始めた。 切り藁(きりわら)と水を手に、彼は庵の前の道に立つ墓へと向かった。たすき掛けして手足を晒し、切り藁に水を含ませる。 「おはようございます、おトキ殿。今日は天気も良い」 屈み込み、濡れた切り藁で墓石を磨く。毎日のように十兵衛が掃除をしているおトキの墓は、清潔なものだった。なんなら庵の方が手入れが行き届いていないのでは無いかと言うほどである。 「…十兵衛は、これほどまでにそなたを大事に思っておるのだな」 しゃっしゃっと音を立てて裏まで掃除し、水を掛ける。冬の水仕事に慣れない手は真っ赤になったが、その痛みは何処か心地良かった。 篤実は雪の残る足元に注意をしながら辺りを見回し、白い花を付けた木を見つけた。その枝を一本手折り、おトキの墓へと戻って供え、両手を合わせる。 「おトキ殿の大切な衣を、お借り申す。それと……」 ――それと。 その先を言うのが躊躇われ、若君はじっと佇んだまま動けなくなった。 「墓に供えられた花でも盗むつもりか? 腹の足しにもならんじゃろうに」 突然の濡れ衣に振り返ると、そこには男が一人立っていた。青い髪を後ろでひっつめ、眼鏡をかけたつり目の男。 「無礼な。……己は大神十兵衛の客である。この墓が誰のものなのかも、心得ている」 「なら、手ぇ出す訳がねぇと」 「然様」 男は、背中に薬箱を背負っていた。笑う唇から時折青い舌をチロチロと覗かせる。 「はは、一年ぶりに訪ねたが、見慣れぬ人間がおったのでのぉ。それで、肝心の十兵衛は居るか? 天目屋が戻ったと言えばわかる。天目屋竜比古(てんもくやたつひこ)が戻ったとな」
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