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シャンソン歌手エディット・ピアフの有名な愛の讃歌は1950年にリリースされ、以降日本でもカバーされ盛んに歌われたものだった。 だから男は半ば夢の中にあって曲名を労せずして当てることができたのだ。 裸電球に群がる虫が傘の中で暴れる羽音に似ていた。 伸びやかなフランス語の歌声が流れている。例えるなら薔薇で綴ったシルクの上を飛び回る蝿と同じく耳周りから払いたくなる、そのノイズはレコード盤という状況に至る一つの解答を男に提示していた。 プツ、プツ、ジ 巻き舌の挑戦的な、息継ぎを感じさせない美声を害するノイズは寧ろねっとりとカーボン・ブラック色に艶光るレコード盤の、塩化ビニールとポリ酢酸ビニールの匂いまで鼻先へ届けた。 この匂い。あの曲。 懐かしさはふんわり浮かぶのに記憶は霞んでいる。 弓形の細眉。ラモーム(子雀)ピアフ。エッフェル塔にシャンゼリゼ。1960年頃のパリをそのまま運ぶ歌声。カフェ・クレームの泡で口周りを白くしたギャルソン。 プツ、プツ、ジ 冷たい感触が亀頭を撫でた。五感を超越した何かに深々と本能を掘り起こされ男はいきなり脈打つ個体となった。 性感の道筋を硬質な先端がなぞり、遅れて恥部が冷気に晒される。 収納されていた陰茎がたらりと真紅の絨毯の上に投げ出された。 冷気が恥部に刺さる。集約していた感度は奥へ広がり、男は身を震わせた。 視界と脳髄に掛かるぼんやりした膜は氷の針で引き裂かれ、一気に焦点が結ばれる。 重い瞼がカーテンのように勢いよく開かれた。
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