月夜のなまえ

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 僕の名前は、キヨ。  月夜の晩に拾われたから、僕の名前はキヨという。  ――のでは、たぶんない。 ◇◆◇ 「キヨ」  おいで、と言うように、奈保子さんは両手を広げた。  タン、と後ろ足を蹴って、彼女の膝に乗ってあげる。よしよしと、細い指が僕の背中の毛をくぐる。彼女の少し低い手の温度が、僕の体にはよく馴染んだ。  僕は猫だ。  猫という生き物について、僕はあまり詳しくはないけれど、奈保子さんに連れられていった動物病院でもそう言われたし、テレビでやっている猫番組というのに出てくる生き物は、僕と同じ姿をしている。だからきっとそうなのだと思う。  僕は猫らしくない猫なのだそうだ。  病院に連れて行かれてもじっとしているし、検査や注射も、ちょっと痛いし嫌だけど、暴れるほどじゃない。もっとつらいことを知っているから、あのくらいは我慢できる。  奈保子さんは、月夜の晩に僕を拾ってくれた。  それまで僕は、段ボール箱の中で、丸まって過ごしていた。  病院の先生が言うには、僕は人間に捨てられたのだそうだ。段ボール箱の蓋がガムテープでぐるぐるに巻かれていて、奈保子さんが見つけてくれなければ、僕は今ごろ死んでいた。  だけど、僕は人間に捨てられたわけじゃないのだと思っている。  なぜなら、奈保子さんがそう言ったからだ。  奈保子さんは、僕は「キヨ」の生まれ変わりなのだそうだ。  「キヨ」はある日突然、奈保子さんの前からいなくなってしまった。悲しくて、悲しくて、泣き暮らしているときに見つけたのが僕だった。  僕は、「キヨ」と真っ黒な髪とつり目がちな目尻がよく似ている。あまり動じないところも。  だから、僕はキヨなのだ。 「キヨ、もうどこにも行かないで」  行かないよ、僕は奈保子さんの傍にいたいんだ。  何度そう思っても、僕の言葉は奈保子さんに伝わらないから、代わりに彼女の手に頭を擦り寄せる。  その白い手の甲には、二週間前に僕がつけた爪痕のかさぶたが、まだうっすらと残っている。申し訳なくて舌で舐めると、「ざりざりするよう」と彼女は身を捩らせて笑った。  彼女が笑うと嬉しい。僕がこの家に来たばかりの頃、彼女は泣いてばかりいた。  僕に「キヨ」だったころの記憶はないけれど、いつか思い出したいと思っている。  「キヨ」と奈保子さんは恋人同士だった。僕は奈保子さんが大好きだから、早く思い出したい。 ◇◆◇  奈保子さんは、朝起きると仕事に行く。  今朝も走るようにして家を出て行った。奈保子さんは寝ぼすけなのだ。  一度、慌ててかけ忘れていった鍵を、僕が閉めてあげたことがある。そのおかげで、帰ってきたとき鍵が閉まっていたので、奈保子さんは気づいていないけれど。それからはずっと、鍵がカチャンとかかる音が聞こえるまで、奈保子さんを見送ることにしている。  仕事に行くときの奈保子さんは、いつもより地味な格好で、いつもより派手な顔をしている。お化粧というらしい。  立ち仕事だから、足が棒になると彼女はよくこぼしている。  足が棒になる仕事なんてやめたほうがいいと思うけれど、僕には、奈保子さんの足は、足にしか見えない。いよいよ棒に見えるようになったら、そのときは噛んででも止めようと思う。  それに、奈保子さんが仕事に行かないほうが、僕は嬉しい。奈保子さんがいない間、僕は退屈だ。  退屈なので、部屋の中を探検する。  僕と奈保子さんのベッドがある寝室を抜けて、左手に進む。廊下を少し歩くと、洗面所とお風呂場がある。  一度、洗面台にぬるいお湯をためて、毛並みを泡立ててもらったことがある。僕は猫らしくないので、お風呂も嫌いじゃない。ただ、驚いてひっかいてしまったので、奈保子さんは僕が風呂嫌いだと勘違いしているのかもしれなかった。手の甲についた傷は、そのときのものだ。  洗面所を素通りして先に進むと、一番広い部屋にたどり着く。僕たちがいつもいる場所だ。テレビと、ソファと、テーブルと椅子。隣にはキッチンがある。  僕は、奈保子さんがキッチンから出てくるときが好きだ。僕のご飯を出してくれるし、マグカップを持っているときは、ゆっくりする夜の合図だ。  奈保子さんは、時折間違えてマグカップを二つ持ってくる。僕が「キヨ」だったころの癖なのだ。  二杯目の、ぬるくなった紅茶を無理して飲むときの彼女は苦しそうだ。お腹のところと、胸のところがいっぱいになってしまう。そういうときは、決まって僕を膝に乗せ、泣きながら抱きしめる。  僕は、奈保子さんにぎゅっとされるのが好きだ。  猫番組によると、そういうところが猫らしくないのだと思う。テレビの中にいる、猫というのは気まぐれだ。だけど僕は、猫らしいことよりも、奈保子さんのほうがずっと好きだ。  早く、「キヨ」だったころのことを思い出したい。  思い出せたら、僕はもっと奈保子さんに優しくしてあげられる。前みたいに。泣くほど想われていた「キヨ」に、早く戻りたい。 ◇◆◇  いつの間にか寝てしまっていたらしい。  ご飯の食べかけが目の前にあるので、たぶん食べながら寝てしまったのだ。お腹がいっぱいになると、たまにやってしまう。一匹分のご飯は、まだ僕には少し多い。  残りを平らげたところで、もう空が暗くなっているのに気がついた。猫は夜目が利くのだ。日が暮れて、赤みたいに濃いオレンジと、黒の建物の時間が終わる。この空になると、もう少しで奈保子さんが帰ってくる。  玄関で待っていよう。以前、玄関で出迎えたとき、わんちゃんみたいねと彼女は笑っていた。うんと昔に、どこかの駅で、飼い主をずっと待ち続けた犬がいたのだそうだ。僕にも、その気持ちはわかる。奈保子さんを待っている時間の退屈は、好きだ。  ぺろぺろと水を舐め、喉を潤してから、廊下へ向かう。  すると、玄関に一番近い部屋のドアの隙間から光が漏れているのに気がついた。寝室の向かいにある、僕の入ったことのない部屋だ。いつも閉め切られているはずなのに。  奈保子さんが帰ってきたのだろうか。入ってはいけないと言われているので、ドアの手前から、中を窺う。猫は人間の言葉なんてわからないと、知らない振りをしてもいいのかもしれないけれど。奈保子さんとの約束なら守りたい。  部屋は、がらんとした空洞だった。  ベッドも、ソファも、ぬるい紅茶のマグカップもなにもない。冷たい床が、ただしんと広がっている。  ここはきっと、「キヨ」の部屋だったのだ、と思った。  「キヨ」がいなくなってしまったから、「キヨ」のものもすべて片付けて、がらんどうの部屋を見るのが悲しいから、奈保子さんはこの部屋を閉め切りにしたのだ。  ――でも、と思う。  奈保子さんは、どうして「キヨ」のものを片してしまったのだろう。がらんどうを閉じ込めるくらい悲しかったはずなのに、どうして、「キヨ」の部屋をそのままにしておかなかったのだろう。  首を傾げたとき、額の半分ほどの視界が、左にずれた。ずれた視界の片隅で、先程までは見えなかった影が、ゆらりと動いた。  身体中の毛が逆立った。  奈保子さんじゃない。でも、誰かがいる。  この部屋には、奈保子さん以外の人が入ってきたことはない。友達も、家族も。  家族はキヨだけと、彼女はことあるごとに僕を抱きながら呟いた。まるで言い聞かせるように。  そのキヨが、僕の名前なのか「キヨ」の名前なのか、僕は人間の言葉を話せないから、問いかけることができない。僕が「キヨ」のことを思い出せさえすれば、そんなもやもやは抱えなくていいのに。  息を潜めて、ドアの影から距離を詰める。幸い、相手は僕に気づいていないようだった。  「キヨ」の部屋にいたのは、長い黒髪の女性だった。白いシャツに、足のシルエットがわかる黒いパンツを穿いている。  がらんどうの部屋で、彼女は外を眺めていた。閉め切られた窓にかけられたカーテンを、指でめくって、もうすぐ真っ暗になる空を見ている。その後ろ姿だけが、僕のいるドアのところから見えた。  誰かはわからないが、何かを盗みに部屋を探る様子はない。性別が違えば奈保子さんへの暴行を警戒するところだが、彼女よりも少し背が高いくらいの女性には、それも難しいのではないかと思う。  それでは、僕が家に来てから初めての、奈保子さんのお客さんだろうか。それなら安心だが、だとしたらなぜ奈保子さんはここにいないのだろう。  いかんせん僕はずっと眠っていたので、彼女がどうやって部屋に入ってきたのかがわからない。奈保子さんが帰ってきたなら、さすがに気づくのではないかと思うのだけれど。  いざとなったら、僕が噛みついてやろう。それなら僕にも、じゅうぶん撃退できるはずだ。  そう心に決めたとき、ふと、何か聞こえることに気がついた。  耳を澄ます。すると、無言で外を眺めていると思っていた女性が、何か小声で言葉を発していることがわかる。そろりそろりと忍び足で、ドアのギリギリまで身を寄せる。 「……もうすぐ時間なのに、足が動かない。どうしたいんだろうな、私は」  奈保子さんより、少しだけ低い声。僕が耳を澄ませていることを知らない、誰にも聞かせるつもりのない言葉。ひび割れて、痛々しい。  その声を聞いて、なぜか奈保子さんのことを思い出した。僕を抱きしめながら泣く、出会ったばかりの奈保子さんを。  二度、彼女は大きく首を振った。黒髪が、左右に靡くように揺れる。 「駄目だ、帰ろう。私は、ナオに……」  彼女が踵を返したときだった。  玄関から、鍵が空回る音がする。ぴくりと、僕のひげが揺れる。 「あれっ……?」  焦った声が、玄関から響く。日常でもよく聞く、少しおっちょこちょいな奈保子さんの声だった。 「どうしよ……私、鍵、かけ忘れた?」  僕は、玄関で奈保子さんを出迎えようと思っていたことを、そのときようやく思い出した。今すぐ駆け寄ろうかと思ったが、すぐに思いとどまる。目の前にいる女性が、一瞬、酷くうろたえた顔をしたから。  こちらを振り返った彼女は、なんだか、どこかで見たことのあるような顔をしていた。  僕は、あまりたくさんの人間を知らない。だから、今まで会った数少ないうちの誰かだと思うのだけれど。  それが誰か思い当たる前に、彼女の表情が、一瞬にして拭い去られた。  え、と僕は目を丸くする。  もちろん、タオルで拭いたわけじゃない。だが、今まで滲んでいた感情が、もうその顔には浮かんでいなかったのだ。 「どうしてここにいるの……」  はっとして、僕は背後を見上げた。そこには、朝見送ったのと同じ格好をした、奈保子さんの姿がある。  奈保子さんは、見たことのない顔をしていた。笑えばいいのか、泣けばいいのか、それとも怒ればいいのか。どんな顔をしたらいいのか迷っているような、こわばりが見て取れる。  なんとなくでも、そんな表情が読み取れるくらいには、僕は奈保子さんと一緒にいたのだ。  聞き取れるか聞き取れないか、掠れた声音で奈保子さんが呟く。表情と同じに、声の出し方を忘れてしまったかのように、呆然と。 「忘れ物があったから」  と、表情の読めない顔で、黒髪の女性が言う。  彼女は、やはり奈保子さんの知り合いだったようだ。ただ、当の奈保子さんが驚いているのを見るに、彼女が招き入れたわけではないらしい。どうして部屋に入ってこられたのかは、わからないままだ。 「そう、なの……」 「だけど、ここにはもう何もなさそうだな」 「……捨てていいって、言ったのはあなた」 「そうだったね」  彼女は、そこでようやく顔に笑みのようなものを浮かべた。唇の端だけ、無理につり上げたような形だった。  それを見て、もしかして、と思う。  呆然と、どんな顔をしていいのかを迷い躊躇う。彼女の表情が読めなくなったのは、奈保子さんと同じ理由だったのではないか、と。 「帰るよ」 「……そう」  俯く奈保子さんの横を、彼女が通り過ぎていく。  そうだ、と思い立って身を乗り出した。もっと近くで彼女の顔が見たかった。もう少しで、何かが思いつきそうな気がする。  彼女の背を追って、玄関へ。靴箱の上に飛び乗ると、奈保子さんが帰ってきてからほとんど表情の変わらなかった女性が、虚を突かれたような顔をした。見開かれた切れ長の目で、僕を凝視している。 「キ、……っ」  言いかけて、奈保子さんが口を噤んだ。  ──どうして。  僕の気持ちと一緒に、しっぽが揺れる。  もしも僕に人間の言葉が話せたら、そう問いただしたかった。  どうして僕の名前を呼んでくれないんだ。僕は、奈保子さんが僕を呼ぶ声が、この世で一番好きなのに。  女性を凝視していた目を、奈保子さんに戻す。彼女は、何かを堪えるように、両手で小さな口を覆っていた。 「なに、この毛玉」  僕と奈保子さんの顔を見比べて、口元だけで、女性は笑った。 「失恋でペット飼うとか、今時どうなのよ」  奈保子さんは、酷く傷ついた顔をした。  涙がこぼれないのが不思議なくらい痛そうな顔で、口元を覆っていた両手を、ゆるゆると下ろす。そうして、ぎゅっと握りしめた。 「……そんなんじゃ、ない。たまたま、捨てられてるのを拾っただけ」 「ならいいけど。そんな冗談みたいな不誠実の片棒担いだことにされてたらどうしようと思った」  ――え、と。瞬きを繰り返す。  はじかれたように、僕は女性を見上げていた。彼女も、僕の顔を見下ろしている。近い距離で視線を交わして、ようやく気づく。  黒い髪、つり目がちな目尻――この人は、僕に似ているのだ。 「……キヨ、おいで」  後ろから、やわらかな声音が僕の名前を呼んだ。  僕の、世界で一番好きな響き。  反射的に、僕は後ろ足を蹴り上げていた。とすんと僅かな音を立てて、奈保子さんの胸に着地する。 「キヨって、正気? ……その名前、まるで私への」  遮るように、奈保子さんが言葉を重ねた。 「月夜の晩に拾ったから、キヨなのよ。……希世子」  顔を上げる。見上げた奈保子さんは、希世子と呼んだ女性を真っ直ぐ見詰めていた。それがなんだか悔しくて、肉球で奈保子さんの顎をふみふみする。  仕方ないなというように、奈保子さんがこちらを見下ろす。その表情は、いつもの穏やかなものに戻っていた。 「馬鹿じゃないの」 「私が一番よくわかってるよ」 「……その猫がキヨで、私は希世子なの?」 「うん」  馬鹿じゃないの、と希世子さんはもう一度呟いた。  そうして、奈保子さんと希世子さんは、しばらくお互いの顔から目を離さなかった。拭い去った表情と、穏やかな表情の、真意を探るように。長い間、ずっと、互いを見つめ合っていた。  先に目を逸らしたのは、希世子さんのほうだった。 「……さよなら、ね」 「うん。……さよなら」  奈保子さんは、またほんの少しだけ痛そうな顔をした。それでも笑ったまま、お別れの言葉を口にした。それを見て、希世子さんは玄関の戸を開く。 「ナオ……奈保子、これ、忘れ物」  ドアノブを握るのとは逆の手で、何かをこちらに投げる。慌ててそれをキャッチした奈保子さんは見ていなかったけれど、希世子さんは、バイバイと言っているみたいに、ひらひらと手を振っていた。  その薬指には指輪が嵌められていて、それは、彼女が投げて寄越したこの家の鍵と、同じ色をしていた。 ◇◆◇  つまるところ、「キヨ」は死んでなどいなかった。  「キヨ」は希世子さんで、僕は「キヨ」の生まれ変わりなんかじゃない。  奈保子さんの好きだった「キヨ」はもう、この世に存在しないから、だから奈保子さんは、「キヨ」が死んだことにした。  奈保子さんが泣かずに笑って日々を過ごせるようになるには、きっと、必要な嘘だったのだ。  希世子さんが帰った後、奈保子さんは、キッチンでお湯を沸かした。  やかんが、けたたましい音を鳴らす。キッチンから出てきた奈保子さんは、マグカップをもう、二つ持ってはいなかった。 「キヨ」  おいで、と言うように、奈保子さんは両手を広げた。  タン、と後ろ足を蹴って、彼女の膝に乗ってあげる。よしよしと、細い指が僕の背中の毛をくぐる。彼女の少し低い手の温度が、僕の体にはよく馴染んだ。 「キヨがいてくれてよかった。もし一人でいたら私、きっとみっともないこと言ってたから。ちゃんとお別れができて……よかった」  奈保子さんは、笑いながら泣いていた。  無理をして作った笑顔だとわかっていたけれど、同時に、心から浮かべようと努力した笑顔だとも思った。僕が拾われたばかりのころと違って、それは悲しいだけの涙ではないのだとわかった。  舐めたら同じ味がしたけれど、奈保子さんは「ざりざりするよう」と、いつものように身を捩らせて笑った。 ◇◆◇  僕の名前は、キヨ。  月夜の晩に拾われたから、僕の名前はキヨという。  ――今は、間違いなくそうなのだ。
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