先生とは

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 その日は年末の風がやけに肌に滲みた。  私は塾での勉強を終えて、電車に乗る必要もないのに改札を通りほぼ誰もいない駅のホームに制服姿で降り立った。  別に帰りたくないとかいう訳じゃないし、何か特別悩み事がある訳でもない。一つ言えるとしたら、なんだか勉強するのに疲れて何かこう気分転換をしたかった。どこへ行くかはまだ決めていないけれど、私は上りの電車の来るホームで電車を待つことにした。  二十二時のホームは、通学時の風景とは似ても似つかず、私が深呼吸でもすれば、ホーム内にいる人みんなに聞こえてしまいそうなほど静かだった。私は口を噤み、ボーッとホームを歩いていると、誰かが吐いた今日一日分の疲れの音が聞こえてきた。将来私もそんな息を吐くのだろう。  何も考えず歩いていると、広告の付いたベンチを見つけホームの端まで来たことを知った。ベンチの上にはスーツを着た男の人が寝そべっていて、少し嫌な匂いがする。私はあまりその男性を見ないようにして電車がやってくる方をちらと見た。  ホームの端には柵があってその先はポツポツと外灯があるものの、先の方までは暗くて見えない。いっそ柵を越えて線路の真ん中を歩いてみたいと思ったのだけれど、終電の時間までの時間の潰し方が思いつかなくて止めにした。 「あっ」  物珍しさにやっぱり私の視線はベンチに寝そべっている男性に奪われてしまいじっと見ていると、見たことがあるような気がしてしばし考えた後、私は小さく声を上げた。  ベンチの上に器用に寝そべっているのは私の高校の担任の西原先生だ。三十代くらいの男性で愛想というものをどこに忘れてきたのだろうと思うような人。授業や普段の生活の様子を見る限り、あまりやる気がなくだらっとしているイメージを私は持っている。ただ、そのだらっとしているのがアンニュイな感じでいいよねと言っている女子生徒を見たことがある。分からなくもないけれど、私は愛想よくない人と仲良くなるのが苦手なので先生と話すのは進路相談の時くらいだ。その時も、ま、頑張れ、みたいなことしか言ってくれなくてあまり頼りにならない。  私は慌ててしゃがみ込み先生を起こしにかかった。教職をしている人がこんなところで寝ているなんて誰かにバレたらちょっと問題だ。何がどう問題かはちょっと分からないけど、まぁモラル的に問題だろう。 「先生、先生」  そんなに人がいないと言えど、ちらほら人がいるホーム。私は周りの人にバレないように先生に声をかける。肩を叩いてみると、先生は苦しそうな顔をして目を覚ます。そして、私の方に手を伸ばしてきたかと思えば、私の頭の後ろに手を回し、先生と私の顔の距離はぐんと近くなる。 「さやか」 先生は確かにそう言った。私は思いっきり体を退け反らせて、その反動でその場に尻餅をついた。目の前にいるのはいつも見ているはずの先生だけれど、もしかしたら先生じゃないのかもしれない。私はそんなことを考えながらその場から動けないでいた。  先生は頭を押さえながら起き上がり、私を見るなり状況を整理しようとしたのか一時停止した。 「……山下、ここで何やってんだ」 「こっちのセリフです」 「いや、こっちのセリフだよ」  そんな無意味な押し問答をする。先生は一度天を仰いでから、私に五百円玉を握らせ、水と自分の好きな飲み物を買ってこいと送り出した。私はすぐそこにある自販機に向かう。  私は心臓の鼓動が鳴り止まないことを自覚していた。先生というものは教職者であり、聖職者と言われることもしばしある。学校の中だけで言えば善悪を見定める裁判官とも言えるだろう。先生というものは清廉潔白な存在だと勝手に思っていた。だから先生というものに性別を感じたことがほぼなかった。西原先生が男性だということは重々承知していたが、そういう対象だと思ったことも、そうなりうる対象だとも考えたことがなかった。けど、西原先生をアンニュイと表現した女子生徒はかなり見る目があったのかもしれない。学校外で見る先生はその、なんというか、うん。大人の男性だった。  私は水とカフェオレを手にして先生の元へ戻った。 「私、山下紗也です」 「は」  私は先生に水を渡しながら言った。先生は知っているが?という顔を私に向けてくる。学校にいるより素を出しているのだろうか、目つきが悪い。おつりを渡すと先生は受け取ろうともせずペットボトルの蓋を開けて思いっきり水を飲んだ。 「さっき、さやかって」 「え、嘘」  先生はしまったと言わんばかりに頭を抱えてから、遠くを見ながら寂しそうな表情を浮かべた。私は先生の隣に腰をかけ、カフェオレの缶の蓋を開けながら先生の言葉を待った。 「そのカフェオレに免じて今日ここであったことは忘れてくれないか」  先生はため息を吐きながら、力なく言った。 「キス、しようとしたこともですか」 「申し訳ない」 「言い訳しないんですか」 「……しないよ」  やがて先生はタバコに火を付けた。 「タバコ吸うんですね」  嗅いだこともない匂いが横から漂ってきて、先生も普通の人間で、普通の男なのだと実感する。先生はいつも学校で先生を精一杯、やっている、のかもしれない。 「早く帰りなさい。親が心配する」  どうしてこんなところで寝ていたんですか、さやかって誰ですか、先生はいつもそうやって寝起きにキスするんですか。……さやかって先生の何なんですか。  聞きたいことはたくさんあるはずなのに聞けないのは、私が生徒で先生が先生という役を週明けからも演じなければいけないからというだけではなく、先生が触れて欲しくなさそうな、けど話を聞いて欲しそうな、苦しそうな顔をするからだ。  そんなところを見せられたら、忘れられないし、先生が先生じゃない時の姿が気になって気になって仕方なくなる。 「大人はずるいです」  先生はタバコの煙を燻らせて、小さく笑った。子どもだと思われただろうか。  大きな音ともに電車が到着する。先生はさっきまで寝ぼけていたのが嘘みたいに荷物を持ち素早く立ち上がり、私の頭に大きな手を添え髪の毛をくしゃくしゃっと乱した。 「大人でごめんな」  先生は私を残して電車に乗りどこかへ消えた。私は気分転換どころか気になる事柄が増えて心に疲労を抱えながら帰路に着く。空に浮かぶ月は心なしかいつもより小さくて頼りなく見えた。私は一つため息を吐いて、まだ忙しなく動いている心臓を落ち着かせようとゆっくり歩いた。  先生は進路相談の時と同じように、私に何も言ってくれなかったけど、それに悪意がないことはなんとなく分かった。そして、先生が私に、あの日の夜のことを言い訳してくれる日が来ることが一生無いことも、悲しいながら分かった。
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