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♯1 杏里、仰天する
その事件のことなら、杏里も覚えていた。
いや、果たして事件と断定していいのかどうか…。
今年の2月と3月。
痴呆状態で街をさまよう男が、相次いで発見された。
ひとりは木下和弘19歳、無職。
発見場所は、JR那古野駅のガード下。
2か月前の早朝のことである。
もうひとりは、川田紘一46歳、会社員。
発見場所は、栄町の繁華街の路地裏。
先月の、これも朝早くのことだ。
捜査を進めるにつれ、判明したのは、意外な事実だった。
ふたりとも、婦女暴行の前科を持つ、保護観察中の、要注意人物だったのである。
だが、なんといっても異様だったのは、発見された時のふたりの状況だった。
2人目の川田紘一が見つかった時の照和署内の会話を再現してみると、ざっとこんなふうだ。
「なにい? 脳が半分なくなってる? 馬鹿も休み休み言え。んなこと、あるわけねーだろうが」
愛知県警の科捜研から戻ってきた高山の報告を耳にするなり、韮崎はそう怒鳴ったものである。
「いえ、だって、ヤチカ女史がそういうんだからしょうがないじゃないですか。それに、なくなったのは半分じゃなくて、一部分ですよ」
いきなり怒鳴られて高山が林檎のような頬を膨らませたのを、きのうのことのように杏里は覚えている。
話に出てきたヤチカというのは、本名、七尾ヤチカ。
30代前半の、科捜研が誇る、切れ者美人研究員だ。
合同捜査本部が立つ大きな事件の時には必ずおでましになるので、杏里もよく知っている。
まだ直接話したことはないが、若い女性の身ながら警察の第一線で活躍するヤチカは、いわば杏里のあこがれの的だった。
「は、またヤチカか。どうもあいつが出てくるとろくなことにならん」
何か嫌な思い出でもあるのか、韮崎が苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「いえ、でも、彼女は美人だし、頭も切れるし…」
「そんなん関係ねーだろ? だいたい、被害者が頭カチ割られてたなんて話、聞いてないぞ。なのに脳の一部がなくなってたってのは、いったいどういうことだ?」
2件とも管轄外なので、当然、照和署には直接報告は上がってこない。
だが、何かの拍子で事件に興味を持った韮崎が、高山を非公式に科捜研に行かせたのだった。
「ふたりとも、喉の奥に穴が開いてたそうです。ヤチカ女史の話では、そこからストローみたいなものを突っ込んで、直接吸ったんじゃないかと…」
「吸ったって、何をだ?」
「だから、脳の一部をです。被害者ふたりは、脳幹を破壊されたあげく、松果体を食われていたそうです」
「なんだ、その松果体ってのは?」
「なるほどなあ。レイプ魔たちは、世にも奇妙な方法で去勢されてしまったというわけか」
横から口を挟んだのは、三上だった。
「班長、松果体ってのは、確か、性腺刺激ホルモンを分泌する器官ですよ。だから、松果体を切除された人間は、たぶん、性欲を覚えなくなるんです」
そして、1週間前と4日前に、この森林公園で立て続けに起こった連続レイプ事件。
その事件のあらましを手短に話して聞かせると、韮崎は言ったものである。
「いくらレイプ魔とはいえ、一応は人間だ。そんな人の脳味噌をストローで吸うなんて物騒な奴を野放しにしておくわけにはいかん。いいか、笹原、おまえ、囮になってレイプ魔を引き寄せろ。今現在、世間を騒がせてる婦女暴行事件は、森林公園で起こったこの2件だけだ。やつは必ず来る」
というわけで、杏里は今、コスプレまがいのセーラー服を着せられてここにいるのだが…。
まず、レイプ魔をおびき寄せるという、任務の第一段階は、無事クリアしたといえそうだった。
回想から覚め、杏里は視線を男に戻した。
ずいぶん長い時間物思いにふけっていた気がするが、男は元の位置からほとんど動いていない。
暗いフードの中から、赤く血走った眼で、警戒するように杏里を見つめている。
どうやら、男は杏里がただの通りすがりの若い女ではなさそうだと気づいたらしかった。
それも無理はない。
杏里は無意識のうちにファイティングポーズを取っていた。
警察学校を卒業するには、ふつう、柔道か剣道どちらかの段位をとらねばならない。
が、女性に不評ということで、杏里の代からもう一種目、『総合格闘技』が追加された。
そこで杏里が選んだのは、なんと、キックボクシング。
理由は単純。
志願者が一番少なかったからである。
が、いざやってみると、キックボクシングは意外と杏里に向いていた。
Gカップのバストを振り子代わりにして繰り出す杏里のパンチは、けっこう重い。
また、発達した尻の筋肉のおかげでキックも強力なのだ。
運動神経の鈍い杏里が警察学校をなんとか卒業できたのは、だから、半分はこのキックボクシングのおかげだと言ってよかった。
そのため、杏里の構えはそれなりにサマになっている。
レイプ魔が違和感を覚えても不思議はないほどに。
長いにらみ合いの後、ようやく男は決断したようだった。
右手をパーカーのポケットに突っ込んだかと思うと、ナイフを取り出した。
バチンと澄んだ音がして、柄からぎらつく刃が現れる。
どっ。
男が大地を蹴った。
両手を広げて、獲物を狙う猛禽のように掴みかかってきた。
来た。
深呼吸して、腰を沈める。
「とりゃあ!」
次の瞬間、左足を軸にして、杏里は思いっきり右足を繰り出していた。
短すぎるスカートがめくれ上がり、小さなパンティに包まれた下半身が束の間むき出しになる。
どすっ。
重い手応えが来た。
高く上がった杏里の右脚は、正確に男の太い首の右側を捉えていた。
頸動脈のあたりである。
普通の人間なら、この重い一発で昏倒するはずだった。
が、男は倒れなかった。
「え? ちょ、ちょっと」
杏里は焦った。
足首を掴まれていることに、気づいたからだった。
男が掴んだ足首を、ぐいとひねった。
「わ」
バランスを崩して倒れる杏里。
仰向けになったところへ、巨体がのしかかってきた。
「やめれ! あっちへいけ!」
スカートがめくれ上がるのもかまわず、両足で男の厚い胸板を蹴って蹴って蹴りまくった。
月の光にナイフがきらめいた。
男が腕を振り下ろした。
「うわあああ!」
肩に激痛を覚え、杏里は絶叫した。
いくら特異体質でも、痛いものは痛い。
それに、どれほど治癒力に優れているといっても、限度というものがあるはずだった。
さすがの杏里も、全身をズタズタに切り刻まれてまで生きていられる自信はない。
死に物狂いでもがき、なんとか男の下から這い出た時だった。
ふいに頭の上に影が差した。
見上げると、満月を背景に、誰か立っていた。
ほっそりとしたシルエット。
丈の短い着物を着た、背の高い少女である。
胸まである長い髪。
風でその髪が流れると、どきっとするほど美しい顏が現れた。
生きるか死ぬかの状況だというのに、杏里は吸い込まれるようにその顏を見つめた。
なんて…。
この子、なんて、綺麗なの…。
胸がドキドキする。
息が苦しい。
肩の痛みより、この胸の苦しさを、なんとかしてほしい…。
少女が杏里を見た。
アーモンド形の大きな目。
真黒な瞳孔は、真ん中だけが針で突いたように赤い。
「下がってろ」
少女が言い、着物の袖を広げた。
深紅の着物に、木の葉のような形の模様がびっしりとちりばめられている。
と、信じられないことが起こった。
その模様が、一斉に目蓋を開いたのだ。
木の葉ではなく、眼。
少女の着物に貼りついているのは、夥しい数の、まつ毛の長い女の眼だったのである。
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