プロローグ 杏里、後悔する

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プロローグ 杏里、後悔する

 鋭いブレーキの音が夜のしじまを切り裂いた。 「わ」  たたらを踏んで立ち止まる杏里。  その10メートルほど先に、折り畳みタイプの自転車が急角度で停まっている。  乗っているのは、モスグリーンのフードつきパーカーを着込んだ大柄な男。  暗くて顔までは見えない。  が、直感的にわかった。  こいつだ。  こいつがあの…。  強姦魔に違いない。  そうか。  そうだったんだ。  まさか、移動手段が、自転車だったとは。  杏里は恨めしげにおのれの身体を見下ろした。  よりによってなぜセーラー服。  もう、二十歳すぎてるのに。  今更文句を言っても始まらないが、胸と尻が大きすぎて、女子高生というよりは、これではまるで、コスプレパブの売れっ子お姉さんみたいだ。  周囲は鬱蒼とした森である。  4月15日午後11時20分。  杏里が今呆然と立ちすくんでいるのは、森林公園の遊歩道。  昼間は子供を連れた若いママたちでにぎわうこの公園も、さすがにこの時間帯ともなると、まるで人の姿がない。  無造作に自転車を倒すと、男がゆっくりと身を起こした。  身長は180センチを超えているだろうか。  肩幅も広く、手足が長い。  クマみたい、と杏里は思う。  人を食い殺すこともあるという、獰猛なヒグマ。  一言も発しないが、そんな殺伐とした雰囲気を、男は醸し出していた。  ここ一週間のうちに、この公園では2件の強姦事件が起きている。  刑事になってまだ1年だが、その刑事の勘と女の勘が告げていた。  間違いなく、こいつが犯人だと。  でも…。  と。下唇を噛みしめる。  ここでこの強姦魔を逮捕するわけにはいかないのだ。  杏里の目的は、連続強姦事件の犯人逮捕ではない。  もちろん、本来の目的を達成したら、その後でこいつも逮捕することにはなるのだろうけれど、とにかくそれは今ではないのだ。  だから、あたりに身を潜めている仲間たちも、次の展開があるまでは、おいそれとは助けに来ないに違いない。    相手に気取られぬよう、杏里はこっそりため息をついた。  だいたい私、拳銃も持ってないしさ…。  この格好だしね。  少し腰をひねっただけで、スカートの裾から下着が覗いた。  ぎりぎりまで丈を切り詰めたマイクロミニのせいである。  ついでにいえば、Gカップのバストがセーラー服を思い切りずり上げているため、腹と臍がむき出しになっている。  4月下旬に入ったとはいえ、夜はまだ寒い。  いくら囮捜査官だといっても、それはないよね。  と、恨み言のひとつも言いたくなろうというものだ。  が、それもある意味自業自得なのだった。  あーあ、あんなこと、言わなきゃよかった。  肩を落とし、またまた深いため息をつく。  強姦魔と向かい合い、次に起こるであろう”何か”待ちながら、杏里は激しい後悔の念とともに、3日前の出来事をぼんやりと思い返していた。  杏里はここ那古野市の照和署に勤務する、刑事部捜査一課の巡査である。  本名、笹原杏里、24歳。  警察学校を卒業し、半年の交番勤務の後、照和署に研修生として配属された。  それからさらに半年を経て、ついこの間、めでたく刑事として正式に捜査一課に配属されたばかりなのである。    あれは3日前。    うららかな午後のことだった。  杏里のメインの仕事は書類整理とパソコンへのデータの打ち込みだ。  そもそも刑事とは内勤が基本である。  テレビドラマのように、拳銃を持ってさっそうと街を駆けまわるなんてことは、そうそうあるものではない。  もう、だめだあ…。  眠い。  眠すぎる…。  気温といい、湿度といい、その日はあまりに心地良すぎたようだ。  お昼ご飯の弁当を食べて10分もすると、もうPCの画面がかすんできた。  まだデータ処理を済ませていない書類は山ほどあるのに、眠くてたまらない。  ちょっとだけなら、ばれやしないよね。  ついにデスクに突っ伏した。  ブラウスを押し上げるバストが机の角で潰れたが、今はそんなことにかまってはいられない。  ああ、なんて、気持ちいいんだろう。  春眠、暁を覚えずか。  昔の人は、うまいこと言ったもんだよね…。  両腕に顔を埋めて、すやすやと寝息を立て始めた時、  いきなり班長の韮崎のだみ声が飛んできた。 「ささはらあっ!」 「は、はい!」  ばね仕掛けの人形のように跳び起きる杏里。 「まさかおまえ、新米のくせに仕事中に寝てるんじゃないだろうな」  図星だった。  杏里は青ざめた。 「や、やだなあ、ニラさん、いくら私でも、そんなことするわけないじゃありませんか」  デスクトップPCの陰からおそるおそる顔を出してぎこちなく笑ってみせると、ごま塩頭の小男が、すごい形相でこちらをじっと睨んでいた。  刑事部捜査一課韮崎班班長の、韮崎警部補、55歳。  杏里の直属の上司である韮崎は、神社の狛犬そっくりのご面相をした、ノンキャリアたたき上げの刑事である。 「でも杏里ちゃん、ほっぺによだれの跡がついてるよ」  韮崎と事務机を挟んで座っている若い刑事が、すかさず真顔で突っ込みを入れてくる。  ラガーマンの逞しい身体に小学生の顔を乗せたみたいなこの先輩刑事は、高山一郎。  外見通りの熱血漢だが、その実、刑事のくせに血を見るのが苦手という小心者である。 「え、ほんとですか? え? そんな、え?」  うろたえる杏里を眺めながら、対面の席で三上刑事が笑い出す。 「ほんと杏里ちゃんって、単純でかわいいなあ。でも、寝息が聞こえてたのは確かだけどね」  三上は30代後半の巡査部長。  照和署切ってのイケメン独身中年である。  その三上に笑われて、杏里は真っ赤になった。  よりによってあこがれの三上さんに、寝息を聞かれてしまうなんて…。  だめかも、もう、私。 「笹原、ちょっと、こっちに来い」  韮崎に手招きされ、糸に引かれるようにその前に進み出た。 「あのな、笹原」  スーツでも隠し切れない杏里の発育し切った肢体を、つま先から頭の先までじろっと眺め渡しながら、苦り切った口調で、韮崎が言った。 「捜査一課はな、休憩室じゃねえんだ。もっとしゃきっとしろ、しゃきっと」 「は、はあ」 「だいたいだな、テレビドラマでは、主人公の女刑事ってやつは、たいてい何か特技を持ってるもんだろ? 耳が異様にいいとか、すごい記憶力を持ってるとか、射撃の腕がピカイチだとか。おまえはどうなんだ? 何か特技はないのか? そのグラマーな身体は別として」  グラマーって何?  それセクハラ発言じゃないの?  杏里が言わずもがなのことを口にしてしまったのは、韮崎の挑発についむっとしてしまったからかもしれなかった。 「ナイフ、ありますか」  短く言って、周りを見回した。 「カッターナイフならあるけど、こんなもの、どうするの?」  高山が、机の上のペン立てからカッターを抜いて、手渡してきた。 「こうするんです」  ブラウスの袖をまくり、左手首を上に向けると、杏里はその白い肌にカッターの刃を当て、無造作に手前に引いた。 「な、何をしやがる!」  椅子から飛び上がる韮崎。 「居眠りを注意されただけで、いきなりリストカットかよ!」 「違います。見ててください」  長さ5センチほどの、斜めに引かれた白い線。  かなり深く切ったらしく、表皮がめくれ、白い脂肪層が覗いている。  当然のことながら、そこからたちまちのうちに真っ赤な血の玉がふつふつと湧き出してきた。 「わ、三上さん、救急車!」  血に弱い高山が、腰を浮かせてが叫ぶ。  顔面が蒼白になっている。 「大丈夫ですから」  杏里は3人によく見えるように、左手首を目の高さに持ち上げた。  ぽたぽたと床に血が落ちる。  杏里の左手は、肘の辺りまですでに網の目状に血の筋が伝っていた。  舌を突き出し、傷口をペロッと舐めた。  手首を染めていた血を、綺麗に舐め取った。 「あれ?」  素っ頓狂な声を上げたのは、蒼ざめた顔の高山だ。 「出血が、止まってる」  それだけではない。  血を吹き出していた傷口が、見る間に消えていく。  杏里の皮膚が元の状態に戻るのに、ものの1分もかからなかった。 「なんの手品だ、こりゃ?」  掠れ声で、韮崎がつぶやいた。  今にも飛び出しそうな目で、すべすべした杏里の左手首を凝視している。 「手品じゃありません」  ブラウスの袖を元に戻しながら、杏里は言った。 「これが私の特技です。怪我しても、すぐに治っちゃうんです。私」  そうなのだ。  だから、あの時も、私ひとりだけが助かってしまったのだ。  20年前の、あの夜。  血にまみれた布団。  折り重なって息絶えた父と母。  部屋の片隅に蹲った杏里の元に、銀色に光るナイフが迫る。  刃がギザギザになった、脂と血にまみれたナイフ。  その後ろで、丸い口が嗤っている。  声ならぬ声を立て、心の底から嬉しそうに笑っている。  そして、激痛。  杏里の表情が一瞬歪んだ。  一番思い出したくないことを、思い出してしまったからだった。 「ね、ここまで刑事に向いた女って、他にいないと思いません? テレビの刑事物の女主人公なんて、私にかかったら屁でもないですよ」  悪夢を振り払うために、杏里はわざと明るい口調で言った。 「うーむ」  腕組みをして、韮崎が唸る。 「ほんとに平気なの? なんなら交通安全課の女の子、呼んでこようか?」  優しくフォローしてくれたのは三上である。  これはこれで嬉しい。 「よし、もしそれが本当なら」  長い沈黙の後、韮崎が突然言った。 「おまえの役割はこれで決まりだ。デビューにぴったりの事件もある」 「役割、ですか?」  杏里は眉をひそめた。  班長ったら、今頃何を言い出すのだろう? 「何なんです? それ」 「囮捜査官だよ」  当たり前のことを訊くな、という口調で、韮崎が答えた。 「よく見れば、そのボン、キュッ、ボン、の身体もまさに囮にぴったりだ。しかもナイフで刺されてもすぐ治る。もう決定だ。これからおまえはそれでいけ」  囮捜査官?  そんなものが、刑事の職務の中にあるのだろうか?  事態の急展開に、杏里は呆然と口を開けたものだったが、その3日後、冗談ではなく、本当に囮捜査官としての出動命令が発せられたのだった。  そしてそれは、実に奇妙な命令だったのである。  強姦魔を廃人にして回っている、謎の犯人をおびき寄せて逮捕すること。  杏里の囮捜査官としてのデビュー戦は、そんな意味不明のものだったのだ。                        
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