エピローグ

1/1
1143人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ

エピローグ

「やっぱり怖いよ……。もう少し心の準備をしてから……」 「ダメです。大丈夫ですから、行きますよ」 「でも……」  久しぶり過ぎなので私を見た母がどんな顔をするんだろうと考えるだけで怖くなって足が竦む。でもトモはそんな私を祖父のお屋敷の離れへと引っ張って行った。  相変わらず、立派な和風建築に落ち着く木の香り。何も変わっていないそこは、さらに私の胸を締めつける。  持っている鍵で玄関を開けて、ぐいぐいと引っ張られながら離れの中へ入る。奥にある母の部屋の前についてしまい、思わず体が逃げるとトモに腰を抱かれてしまった。 「や、やっぱり、お祖父様がいる時やお兄様たちがいられる時にしよう!」 「何を言っているんですか。このあと、ロンドンに戻るのに今を逃せば次にいつ会えるか分からないですよ」  う……でも……  俯いていると、トモが優しい眼差しで顔を覗き込んでくる。 「花梨奈さん、レターセットを渡すんでしょう? ちゃんと側にいますから、少しだけ勇気を出しましょう」 「……うん」  私はトモの言葉に観念して深呼吸をしたあと、震える声を抑えるように障子戸越しに「花梨奈です。お母様……」と声をかけた。 「……」  当然ながら返事はない。  息をごくりと呑み込むと、トモが私の背中をさすってくれる。 「入りましょうか?」 「うん」  お母様、私って分かるかしら?  最後に会ったのは十代の時だったから忘れられているかもしれないわ。そう思うと怖い。  でもそんなことを言っていたら、いつまでも逃げ続けることになる。ちゃんと向き合うのよ、私。トモもついていてくれるのだから、しっかりしなきゃ。  そう自分を鼓舞し、私は震える手で障子戸をゆっくりと開けた。すると、クリーム色のカーテンが風にそよいでいて、広い部屋の真ん中にあるベッドに母が体を横たえ目を瞑っていた。  眠っているのかな……?  起こすのが躊躇われて、入り口のところで立ち尽くしていると、母がゆっくりと目を開けた。視線が絡み合うとドキッと胸が跳ねて、変な汗が出てくる。 「花梨奈さん」 「う、うん……」  トモは私に声をかけ中にさっと入り、体を起こそうとした母を支えた。そしてベッドのリクライニングを調整してあげている。  そんな二人を見つめながら、ドキドキと脈打つ胸を押さえ、ゆっくりと近づくと母は以前と変わらない笑みを私たちに向けてくれた。 「お母様……」  椅子を置いて腰掛け、そう呼ぶとベッドのリクライニングを使って起こした上体をわずかにこちらに向けてくれる。  いつ会っても、いつ見ても、変わらない柔らかい表情……。でも痩せた……  以前会った時よりも、か細くなった体を見ながら小さく頭を下げた。トモは何も言わずに側にいてくれる。 「今まで来られなくてごめんなさい……」  私はイタリアに留学し、そこで就職をしたこと。伯父と同じ研究職だということをぽつぽつと話した。そして、留学してから一度も日本に帰って来なかったことを謝りながらぎゅっとスカートを掴んだ。  俯いていると、その手に涙がぽたぽたと落ちる。 「わ、私、怖かったの。お母様は、いつも……いつも、そうやって微笑んでくださるけど……。それでも、私と会った日は……決まって、体調を崩すから……本当は、重荷なんじゃないかって……ずっと、怖かったの……」  だから向き合うことから逃げたの……  日本を離れて家族と離れれば、楽でいられたから。ここはイタリアだから会えないのは仕方ないって。仕事が忙しいから帰れないのは仕方がないって――理由づけをして、向き合うことから逃げていたの……  嗚咽の声を抑えることなく、何度も謝りながら泣いていると、弱々しい手が私の頭に触れた。その感触に驚き、顔を上げると母がとても悲しそうな表情で私の頭を撫でていた。  幼い時は会えば撫でてくれた。でも大きくなるにつれ、それはなくなっていた。まさか、また撫でてもらえるなんて……! 「お母様……」  母は何も言わずに私を見つめたあと、小さく――でも確かに首を横に振った。  もう謝らないでいいと言ってくれているのだろうか……  その気持ちが嬉しくて震える手を伸ばすと、トモが「抱き締めて差しあげたらどうですか?」と言ったので、私は椅子から立ち上がって戸惑いがちに母に抱きついた。  その体は骨を感じられるくらい、とても細くて小さくて、力を入れると折れてしまいそうだった。でも、母は弱々しい手を私の背中に回し、優しくさすってくれる。 「お母様……」  その母の手に涙があふれて止まらない。  生まれてはじめて母の腕の中に(いだ)かれて、こんなにも温かいものなんだということを――今日はじめて知った。  会いに来てよかった。怖がってまた逃げなくて良かった……  母に縋るように抱きついて泣いていると、トモが穏やかな口調で、私とのことを話しはじめた。そして、深々と頭を下げる。 「花梨奈さんを愛しています。絶対に幸せにすると誓います。傷つけたり泣かせたりしないとお約束します」  そして泣きすぎてちゃんと報告できない私の代わりに父のことも報告してくれた。 「もう何も心配することはありません。赤司さんが貴方や貴方の大切な子供たちを傷つけることはもう絶対にありません。なので、安心してください。これからは頻繁に会いにきますので、失われた時間を取り戻していきましょう」 「トモ……。ありがとう……」  彼の力強い言葉に母は何も返事はしなかったけど、私を抱き締めてくれる手がわずかに震えていた。そしていつもと変わらない柔らかい表情で頷いてくれたから、ちゃんと伝わっているのだと感じられた。  私が母から少し体を離し、涙であふれる目をぐしぐしと擦ると、トモがベッドテーブルの上にレターセットと万年筆が入った包みを置いた。 「これは花梨奈さんからのお土産です。レターセットなのですが、体調がよい時に……少し気が向いたらでいいので、少しずつでもお気持ちをしたためてくださると嬉しいです。どれだけ短くてもいいので、お願いします」  トモの言葉に何度も頷きながら、母の手を握った。 「いっぱい……いっぱい……手紙、書くね……。今まで、会えなかった分……いっぱい、書くからっ……お返事くれると……嬉しい……」  母は頷いたり返事はしてくれなかったが、微笑みながら私の頭を撫でてくれたから、きっと「分かったよ」って言ってくれているのだと思う。そう信じたい。  そのあとは、しばらく何も言わずに三人でゆっくりと過ごした。私は相変わらず泣いていたけど、それでもとても穏やかで優しい時間を過ごすことができたと思う。  *** 「会いに来て良かった。ありがとう、トモ」 「いえ、僕もお会いできてよかったです」  祖父の言うとおり、母は私たちを愛してくれていたんだと自信が持てた。  涙でぐちゃぐちゃの顔で笑うと、トモは優しげな微笑みで涙を拭ってくれる。 「時にはぶつかってみないと分からないこともあります。花梨奈さんのお母様が、ちゃんと気持ちをぶつけることができていれば、あそこまで心を壊してしまわなかったのかもしれませんね……」 「うん、そうだね。辛いことは辛いって……助けてって言わないといけないんだなって、今回私もよく分かった気がする」 「花梨奈さん。これから先何かあったら必ずぶつかってきてください。絶対に抱え込んだりしないでください」  トモの言葉に止まった涙がまたあふれ出して、私はこくこくと頷いた。 「トモもだよ。トモも、ちゃんと言ってね?」 「もちろんです。ちゃんと二人で話し合っていきたいです」  そう言って力強く抱き締めてくれる。  トモの腕の中で身を委ねて、ニコッと微笑む。  とても幸せだ。日本に来るまではどうなるんだろうと思っていたけど、今なら来てよかったと心の底から言える。  彼はストーカーだし性欲おばけだし、困ったところも多いけど、とても頼り甲斐があって懐が深いから、彼の手を取ってよかったと本気でそう思える。彼が私を見つけて、ずっと追いかけ続けてきてくれたから今があるんだと思うと、感謝の気持ちでいっぱいになった。 「トモ、ありがとう。好き、大好きよ。愛しているの……」 「僕も、僕も愛しています」 「ずっと側にいてね? 絶対に離さないでね?」 「ええ、もちろんです。離せって言っても永久に離してなんてあげません」  トモらしい言葉にふふっと笑うと、彼が優しいキスをくれる。その重なった唇の温かさと心地よさに多幸感に包まれて、また涙があふれてくる。  この人と一緒にいることが私の幸せなんだと、自信を持って言える。彼と過ごす未来は幸せであふれているんだと――それが自分の幸せなんだと確信が持てる。  彼は流れる涙を拭ってくれ、もう一度キスをしてくれた。これから先の共に過ごす幸せな未来を誓うみたいなとても温かいキスだった……
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!