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86.悪役令嬢は物語を進める
私が話し終わっても、エリオットは暫くの間目を開けなかった。
少しだけ開いた窓から流れ込んで来た風が、カーテンを揺らしていく。もう秋というには肌寒くて、庭を掃除する使用人の男もモフモフとしたボアが首周りに付いた上着を羽織っていた。
目を閉じているのを良いことに、私はエリオット・アイデンの姿を観察する。高い鼻筋に薄い唇、王子様らしい輝く金髪。目の前に居るのは本当にあの、自分が夢中で読んでいた物語のヒーローなのだと思うと不思議な気持ちになった。
「それで、君はどうしたいんだ?」
パッと開いた双眼に私は怯む。
「どう…と言いますと……?」
「君がアリシア本人でないことは分かった。じゃあ君はいったい誰なんだ?どこから来た?」
「えっと……それが、」
微かにあった記憶はもう人に伝える際に言葉に詰まるほどには薄くなっていた。アリシア・ネイブリーとして生きる中で私はこれまでの自分の細かな情報を少しずつ手放していたのだ。意識的にか、無意識的にかは分からないけれど。
覚えているのは、ただぼんやりとした寂しさ。
それはアリシアと自分の唯一の共通点かもしれなかった。
「思い出せないんです。ごめんなさい」
「謝ることではないが、君はこのままアリシアとして生きるつもりか?」
「分かりません。正直なところ、自分でも……」
本音だった。
今までも、これからも、どの道を歩めば良いのかなんて分からない。分かりっこない。アリシアに託された彼女の人生をこのまま進んで良いのかに関しても不安はあった。
「こんなことを言うと…変に思うかもしれないが、」
独り言のようなエリオットの声に顔を上げる。
冬景色のようなグレーの瞳が私を映し出していた。アリシアが追い続けていた最愛の人。二十二年間の生涯を懸けて、守ろうとした大切な気持ち。
「俺が魔獣に化けて君と旅した二週間あまりは、悪いものではなかった。君と見た景色や出会った新しい場所は…とても新鮮で……」
「エリオット様……」
「君の中には今、アリシアの魔力がある」
「え?」
「分からないか?」
伸びてきた大きな手が私の手のひらに重ねられた。
触れた箇所がじんわりと温かくなる。
恥ずかしくなって顔を背けると、ギュッと握り込まれた部分が熱を帯びて光り出した。私はびっくりして目を見開く。エリオットは感慨深い顔でその光を見つめていた。
「どういうことですか、これは……?」
「君の願いは聞き届けられたんだ。アリシアの魔力はこの身体の中に戻っている」
「そんな、だって…彼女は……」
アリシアは言っていた、遠くへ来すぎたのだと。
「生きてくれないか?アリシア・ネイブリーとして、彼女が見られなかった世界の続きを」
「私にはそんな資格はありません!」
「どんな理由があれば良い?」
「なにを…、」
「彼女の居ない世界を一人で生きるのはあまりに寂しい。我が儘な俺の願いを聞いてくれないか?」
「しかし、殿下……!」
「もう十分に分かっているはずだ。君にしか出来ないんだ」
頼み込むように頭を下げるエリオットを前に、私は大きく息を吸って天を仰ぐ。乗っ取り転生者が悪役令嬢として人生を全うするなんて聞いたことがない。
もっとヒロインとか、聖女とか。
そのどちらも人のエゴで作られたものだったのだけれど。
「……もう断罪や魅了は止めてくださいね?」
恐る恐る尋ねる私に、少し驚いたような顔をしたエリオットはすぐに表情を崩して笑った。
知らなかった。
氷の王子なんて呼ばれたエリオット・アイデンも、こんな人間らしい笑い方が出来るだなんて。アリシアも彼のこの笑顔をどこかで見ているだろうか。
私たちは、稀代の悪役令嬢の存在を胸に秘めて、ときどき思い出して悲しんだり、後悔したりしながら前へ進む。残された彼女の魔力と託された想いを、私は大切に大切に育てて生きて行く。
いつか、アリシアに会った時に「貴女の人生は最高だった」と大きな声で言えるように。
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