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66.再び幸運な男
学園から父親の入院する病院まで、何を考えていたのか思い出せない。気付けばもう目の前には真っ白な扉があって、両脇には二人の姉が立っていた。
気を遣って「待合室で待っている」と言うルシウスに頷いて、姉たちに背中を押されて私は病室に足を踏み入れる。いつも陽気でお喋りな父親が、無機質な部屋の中で静かに横たわっているのは、非常に奇妙な光景だった。
「………お父様、」
ベッドの側に椅子を置いて座る母親が顔を上げる。
「シーア、到着したのね」
「お母様…お父様は……?」
「話した通りよ。一命は取り留めて、先ほど検査の結果が出たけれど…なんとか脊髄には達していないみたい」
「そうなのですね…」
おそらく後遺症も残らないのではないか、という医者の推測を母親から聞いていると、ポロポロと涙が落ちて来て、自分が泣いていることに気付いた。気が緩んだのか、安心したのか、疲れたのか、自分でも原因はよく分からない。
ただ、ジルとローリーが覆い被さるように私を抱き締めてくれて、三人で子供みたいに泣いた。
「犯人は…?」
「近くに落ちていた凶器から指紋が出て、もうすぐ特定されるはずよ。捕まるのも時間のうちでしょうね」
「ロカルドが…因果応報だって…」
「なんですって?」
「カプレットの災難は…神の裁きだと言っていたの、」
息を呑む二人の姉の目を見る。
そんな筈はないと頭では理解しているのに、ロカルドの言葉は頭の中でぐるぐる回って、マリアンヌの姿が浮かんだ。ルシウスの好意を受け止めること、それが誰かの不幸の上に成り立つことを、私は今知っている。
「エバートンとカプレットの契約結婚なんて、意味不明だと思っていたわ。私のこと利用しないでって腹が立った」
「ええ、貴方には怒る権利があるもの…」
次女のローリーが私の頭を撫でる。
その手の優しさは、彼に似ていると思った。
「でも、今は…自分の意思でルシウスとの結婚を望んでいる。カプレットの娘としてではなく、私の意思で」
「………シーア、」
「それは悪いこと…?」
「悪いもんか……お前の思いが聞けてよかった」
しゃがれた声が病室の空気を揺らして、私たちは一斉に声の主の方に目を向けた。ウォルシャー・カプレットは先ほどまで昼寝をしていたとでもいう風に、大きく手を上に伸ばすと「いたた…」とすぐに身を縮める。
「お父様!目が覚めたのですか…!」
「お前たちの声は騒がしくて、おちおち眠ってられん」
「貴方……、」
「エマ、心配を掛けてすまなかった」
ぎこちなく母に笑い掛ける父親の姿を見て、私はまた少し涙が滲んだ。姉たちも同様に鼻の頭を赤くして涙を浮かべている。
「お父様、身体の具合は?」
「まぁ、痛みはあるが…これぐらい何ともない」
「……よかった…」
ほっと息を吐く私に、父は真剣な顔を向けた。
「お前には辛い思いをさせたな、シーア」
「いえ、大丈夫です…」
「きっかけは確かに私たち大人の欲深い思いだ。しかし、シーア、エバートンの息子の想いが偽物だと思うか?」
「……私は、」
「実は、結婚の話は彼が直談判に来たんだ。熱心に気持ちを語ってくれたよ、絶対にお前を最後まで愛すると…大切にすると誓ってくれたんだ」
「………っ」
「信じてあげてほしい、どうか」
微笑む父親に何と答えたら良いか分からず、私はただ深く頭を下げて部屋を飛び出した。階段を駆け降りる時に看護師とすれ違い、走らないように注意を受ける。
重たい扉を開けると、暗い待合室に転がり込んだ。
ルシウスが心配そうな顔を上げて私を見る。
その姿に安堵して、言葉に出来ない気持ちの分まで、私は両手で強く抱き締めた。
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