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上様への目通り後、宴が催された。
正式な婚儀とは別に、わたしと上様との縁を祝す歓迎会とのことだった。
「───どうぞ、あたたかい内にお召し上がりください」
「ありがとうございます……。これは、なんの魚ですか……?」
「そちらは鱚の煮付けにございます」
「きす……」
豪勢な食事に舌鼓を打つ。
わたしには見たことも聞いたこともない料理ばかりで、感動より疑問が勝った。
とりわけ海の魚は、どうやって内陸まで持たせたのか、不思議でならなかった。
「───謹んで、お慶び申し上げます、ウキ姫様!
今宵はどうぞごゆるりと、心ゆくまで我らの荒唐無稽を笑ってください!」
「まずは私めが、この者を人面獣心に化かして御覧に入れましょう!」
賑やかな芸者達による舞踊と演奏を愉しむ。
舞踊はお腹に力が入るほど可笑しく、演奏は肩の力が抜けるほど雅びやかだった。
出張見世物、とでも言えば良いか。
「───どうだ、ウキ。楽しいか?」
「はい、とても」
「そうか」
畏れ多かった上様との列席にも、段々と慣れた。
さすがに鱚の保存方法については尋ねられなかったが、歓談らしいことも少しは出来た。
上様の穏やかな横顔が、わたしの生きた心地と繋がっていた。
「───お茶のおかわりは?」
「ありがとうございます、いただきます」
身に余る持て成し。
生まれて初めての経験。
興奮冷めやらぬまま後ろを振り返ると、玉月さんがいる。
自分はお呼びじゃないからと、生真面目な正座で忍んでいる。
彼女とも、並んで食事が出来たなら。
今回は残念だが、いつかの楽しみにしておこう。
「───残りは燗にしてくれ」
「承知しました。そちら様は?」
「わたしはもう結構です。ご馳走さまでした」
「畏まりました。では、お下げ致しますね」
亥の刻に差し掛かり、宴もたけなわとなった頃。
上様と側近の方々とで、晩酌の延長に入られた。
他の参列者たちは、後片付けに就寝の準備にと席を立ち始めている。
ここからは、大人だけで愉しむ時間。
上様とわたしではなく、上様お一人のための宴に切り替わるというわけだ。
「(男の人って、ほんとうにお酒が好きね。
そんなことないのは、父さんくらいだったかしら)」
かくいうわたしも、箸を置かせてもらった。
上様への挨拶もそこそこに、我慢していた厠へ立つ。
「姫様。よろしいですか」
すると玉月さんが話し掛けてきた。
わたしに接触する機を、ずっと窺っていたようだ。
「どうしました?」
「お連れしたい場所があるのですが、お付き合い頂けますか?」
玉月さんからのお願いを断る理由は、わたしにはない。
ただし、すぐには応えられない理由が、今のわたしにはある。
「もちろん、いいですけど……。その前に、ちょっと……」
「なんでしょう?」
「個人的に、といいますか、寄りたいところがありまして……」
恥を忍んで打ち明ける。
皆まで言わずとも察したらしい玉月さんは、周りに悟られぬよう計らってくれた。
「宴の熱に当てられたのですね。
さぁ、こちらへ。お休みになる前に、夜風で涼んでいきましょう」
まずは厠へ寄らせてもらって、"お連れしたい場所"こと例の座敷へ。
「───あの、玉月さん。
今更ですけど、わたし達、勝手に抜け出して良かったんでしょうか……」
そういえば、誰にも断らずに大広間を出てきてしまった。
道すがらになって気付いたわたしは、機嫌を損ねた上様の姿を思い浮かべた。
「いいのですよ。
宴の終わりに、姫様を例の部屋へお連れするよう、上様より仰せつかっておりますので」
玉月さんによれば、問題なしとのこと。
上様じきじきのご用命ならば、安心して玉月さんだけに従える。
それはそれとして、何のためかが分からない。
あくまで来客を通すための部屋ならば、わたしはもう関係ないはずなのに。
首を傾げつつも、玉月さんに付いていく。
「どうぞ」
目的の座敷に到着する。
玉月さんから、先に中へ入るよう促される。
わたしは言及もせずに、自分の手で障子戸を開けた。
そこには、当初とは一味違った絶景が広がっていた。
「これは───」
全開にされた引き戸の奥、縁側を跨いだ更に奥。
月明かりに照らされた桜木が、ゆらゆらと影を落としている。
真昼以上の存在感を放ち、風がなくとも強く香る。
「夜桜です。
昼の桜も良いですが、月下ではまた違った趣があるでしょう」
背後からの声に、わたしは呆然と返した。
「本当に、綺麗、です。
桜って、昼と夜とで、姿を変えるのね」
吸い寄せられるように、夜桜へ近付いていく。
「今宵からは、姫様のものですよ」
「えっ?」
わたしに続いて、玉月さんも中に入ってきた。
振り向いた先の玉月さんは、微笑んでいた。
「ここが貴方のもの、貴女の居場所となるのです」
笑顔の玉月さんとは対照的に、わたしは酷く間抜けな顔を晒しているに違いない。
「い、ばしょって……。
ひょっとして、ここが、わたしの自室になると?」
「たった今から。
自由に使って良いとのことです」
「ほ、ほんとに?こんな立派なお部屋に、わたしなんかが住んでしまっていいのですか?」
「はい」
今日からここが、わたしの帰るところ。
俄に信じがたい話だが、玉月さんは傷付ける嘘をつく人ではない。
「居場所……」
きゅうと、胸を締め付けられる感じがする。
妙に切なくて苦しくて、涙が出そうで出なくて。
知っていそうで覚えのない、この感情は一体なんだろう。
「わたし、の……」
立っているのも儘ならず、引き戸に凭れ掛かる。
「怖いですか?」
先程より近くなった背後から、先程より低くなった声がする。
「正直を言うと、まだ、少し怖いです。
これからどうなるのか、一人でもやっていけるのか……。
当たり前になってくれる日は、いつになるか……」
気配が横を通り過ぎる。
視界の端に、玉月さんの足が映り込む。
「いいえ姫様、一人ではありません」
今度は斜向かいから声がした。
視線を上げると、玉月さんはこちらを向いていた。
暗闇に紛れた彼女が、わたしには何故か光って見えた。
「これからは、私がいます。いつ如何なる時も、貴女のお側におります」
首が、頬が、目頭が、じわっと熱くなる。
「住めば都、というように、いずれこの景色が、貴女にとって安息の印とならんことを……。
私は、願っております」
昼と夜とで姿を変えるは、桜のみならず。
『霧雨』
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