偽りの愛に溺れる

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 朝目覚めると愛しい人はくまのぬいぐるみに変わっている。彼がこの部屋で朝まで過ごすことはない。起き上がって立ち上がろうとしたら力が入らなくてよろけてしまった。ベッドに腰を下ろして彼が買ってくれたぬいぐるみを抱きしめながら昨夜のことを思い出して暫しの間余韻に浸る。  部屋を出て階段を降りると「保育園行かない!」と叫ぶ弟の声が聞こえた。ありゃ、今日もご機嫌ななめだ。 「おはよう」  リビングに行くとダイニングテーブルに顔を埋める幼い弟の後ろ姿が見えた。 「母さん、おはよう」  写真の中の母さんに挨拶をして手を合わせる。母さん、ごめんね。 「蒼介(そうすけ)おはよ」  ご機嫌斜めの弟は微動だにしない。 「蒼介、今日はにいにと保育園行こうか?」 「えっ!?いいの!?」  勢いよく顔を上げた弟に笑顔で頷くと「やったー」と満面の笑みを見せてくれた。 「おむかえもにいにがいいなー」 「いいよ?買い物して帰ろうか」 「おかしかってもいい?」 「1個だけね」 「うんうん、1こだちぇ」  すっかり機嫌が良くなった弟を見てほっとする。5歳になって大人びた発言をするようになったけど、まだうまく発音できなかったりいい間違えていたりする言葉を聞くとなんだか安心してしまう。 「蒼太(そうた)、大丈夫なの?」 「うん、平気。朝はゆっくりできるし、今日はバイトないから」 「ありがとう。助かる」 「買うものあったら教えて」 「分かった」  昨日の夜激しく抱き合った養父(ひと)と何食わぬ顔をして会話をする。これが僕達の日常。  僕の本当のお父さんがどんな人なのか知らない。母は結ばれてはいけない人を好きになって僕を身籠ったと聞いた。幼い頃はよく分からなかったけれど、たぶん不倫していたのだろう。養父である彼は母の幼馴染で、ずっと母の事が好きだったようだ。いつも側で見守ってくれていた彼が本当の父になると聞いた時は飛び上がって喜んだ。確か12歳ぐらいの頃だったと思う。3人家族になって毎日が幸せだった。それから2年後、母の病と妊娠が発覚した。運命は残酷だった。母は蒼介を産む決意をして、治療を遅らせた。父は蒼介を諦めてほしいと何度も懇願していたけれど、母が頷くことはなかった。母が命がけで産んだのが蒼介だ。小さな小さな蒼介を見て、父と一緒に涙を流した。母は治療を開始したけれど進行が早く、1年後帰らぬ人となった。  父はあまり実の両親と仲が良くなくて、母の方も僕が産まれてから疎遠になっていたから頼れる人はいなかった。僕は学校を辞めてひとりで生きていこうと思っていたけれど、父に止められて家族3人での生活を始めた。なるべく家のことをするようにして、保育園から特別に許可をもらい蒼介の送迎も担っていた。  普段は気丈に振る舞う父が母の遺影の前で泣いている姿を見た時は胸が潰れそうなほどに辛かった。好きな人とようやく結ばれたのにあんまりだ。その日から父を支えようとより強く思うようになった。    ある日夢を見た。精神的におかしくなっていたのか、父に抱かれる夢だった。目が覚めても動悸はおさまらず、その日以来父を意識するようになった。父とどうにかなりたいと思うわけではない。ただあの夢が忘れられなくて、自分で自分を慰めるのをやめられなくなった。  高校を卒業して働こうと思っていた僕はまたしても父に止められた。三者面談で先生にも進学を進められ、父から何度も説得された。最終的にはそれで父が喜んでくれるならそうしようというどうしようもない理由で今通っている大学を受験した。  日毎惹かれていって膨らんでいく気持ちに蓋をするのは至難の業だった。決して結ばれることがない人を好きになった母。そんなところ似なくてもよかったのにとため息をつく。  僕たちの関係が一変したのは突然だった。たまに酔っ払って帰ってくる父を介抱することがあったのだが、その日は様子がおかしかった。隣に座る僕の顔を見たことのない表情で見つめてくる。母に似ている僕を母と間違えているのだろうか。頬を撫でる手が唇に触れた。背中がゾクゾクとしてくる。舐めたい、この指を。衝動的にそう思って口を開けて指を含んだ。歯列を上顎をゆっくりとなぞられて体が震える。不意に指を抜かれて、次の瞬間唇が重なった。何が起きているのか分からない。気持ちいいという事だけは分かる。何度も何度も繰り返され、侵入してきた舌を絡めて、必死について行った。それから彼と一線を越えた。例え身代わりであっても、愛してると囁かれながらもたらされる快感は例えようがないほどに甘美だった。幸せで涙を流しながら彼を受け入れ続けた。  翌朝、必死に謝る彼を見て現実に引き戻された。あれは、幻だったのだ。それでも、一縷の望みをかけて囁いた。また寂しくなったらしてもいいよと。  あれで終わりだと思っていた情事は終わらなかった。彼は酔うと僕を求めた。そのうちに酔っていない状態でも体を重ねるようになった。彼が何を考えているのか分からない。それでもいい。あの時間だけ、彼は僕のものになるのだから。  ――ぼんやりしていると、蒼介が首元をジッと見つめているのに気付いた。 「蒼介、にいにの首に何かついてる?」 「あかいのどうしたの?」  ハッとして首元をおさえる。 「虫さんに刺されたのかな」 「もうほいくえんにいないのにね」  不思議そうにする蒼介に何と言えばいいのか分からない。冬でよかった。タートルネックを着れば隠すことができる。 「そうすけ、ありさんはさわれるよ」 「知ってる。小さいありさんは怖くないんだよね」 「うん、そうだよ。そうすけ、トイレ」 「ひとりで大丈夫?」 「うん」  夜は暗くてひとりで行けないから必ず僕か父がついていく。昼間もたまに怖いというから問いかける癖がついてしまった。 「蒼太、ごめんね」  蒼介がいなくなって申し訳無さそうに父が言った。気にすることないのに。 「別にいいよ。隠れるし」 「冬じゃなかったらよかったな」 「どういう事?」 「蒼太に誰か相手がいるってアピールできるのに、なんてね」 「なんだよ、それ」  戸惑う僕の方にやってきて、耳元で「今日もいい?」と囁いた。そんなの肯定しかできない。頷いた僕の頭を父が撫でた。いい子だというかのように。じわじわと耳と顔が熱を持ち始める。  扉が開いて入ってきた蒼介がソファの方へ向かう。 「にいにー、こっちきてー」  そこにあった制服を持ち蒼介が僕を呼ぶ。ひとりでできるお着替えを手伝ってほしいらしい。今日は随分と甘えん坊だ。 「にいにも準備しなきゃいけないからパパが手伝ってあげるよ」  僕の元を離れて蒼介の方へ向かう。 「えー、パパいやー。にいにがいいー」  「そんな寂しい事言うなよ。パパ、蒼介のこと大好きなのに」 「そうすけ、にいにがすきー」  蒼介に振られる父の姿を見て、思わず笑みが溢れる。 「パパもにいにのこと好きだよ」  家族としてじゃなかったら嬉しいんだけど。まぁ、好きと言われただけいいか。 「僕も着替えてくる」  自室に入ってぬいぐるみを抱きしめる。幼い頃はよく話し相手になってもらっていた。一方的に喋りかけるだけだが、この子がいると寂しくなくてどこにでも連れて行った。未だに手放す事ができない。 「今日も僕のこと抱くんだって」  ポツリと話しかける。 「お前は全部知ってるもんね。僕、ちゃんと隠せているのかな?自分の気持ち。たまに、どんな風にするのが正解なのか分からなくなるんだ」  今日も偽りの愛に溺れる。いつか彼が目を覚ますその日まで、僕の夢は終わらない。それが永遠であればいいと、虚しい願いを胸に抱き続ける。
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