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82.やわらかな朝
翌朝、ヴィンセントは隣に居なかった。
キッチンへ降りてみると、なにやら良い匂いがする。コトコトと鳴る小さな鍋の前で立っていた彼は、足音に気付いてこちらを振り返った。
「ジュディ先生、おはようございます」
「うん……おはよう」
良い大人が大泣きしてしまった手前私は恥ずかしく、俯きがちで頷く。もう少し出来るからゆっくりして、という声に甘えて私は自分の身支度を先に済ませるようにした。
ノルン帝国に比べて、南に位置するプカラッタ共和国は比較的温暖な気候だ。けれども、やはり真冬とあって朝の冷え込みは厳しかった。私はタイツを引っ張り上げてスカートを履く。
鏡の前に立つ自分の姿を見た。
化粧で少し隠れたとはいえ、目尻が赤い。
私はいったい何度ヴィンセントの前で涙を流したのだろう。もう数えるのも止めたけど、それだけ自分が彼に心を許しているということ。かつて同じ教室で教師と生徒として向き合っていた相手に、こんな姿を見せるなんて。
どうしてヴィンセントはいつも、私がほしい言葉をくれるのか。対価を求められない優しさは不思議な感じだった。
元夫であるベンシモンにとっては、私は良き妻として生活のサポートに徹していた。彼の必要とするものを把握してその邪魔をしないことだけを心掛けた。
娼館で働いている間、そしてテオドルスの側妃として王宮に居る間は女としての価値を最大限発揮した。彼らが求めているのはシンプルで、その分私はやりやすかった。私の心がどこかを彷徨っていても、身体がしっかりと繋がっていれば、男たちは十分満足していた様子だったから。
「すみません…あまり、料理得意じゃなくて」
申し訳なさそうに言いながら出されたのは、大きく切られた野菜が入ったスープだった。じゃがいもにニンジン、上に散っているのはパセリだろうか。同じく大ぶりの豚肉がゴロゴロと浮いていて、私は思わず笑ってしまう。
「ごめんなさい。口に合わなければ捨てても、」
「ううん。良いの、ありがとう」
ひと口スプーンで口に運ぶと、野菜の旨みが溶けてやさしい味が広がる。
昨日は随分と遅くまで私は泣き通しだった気がするけど、彼はいったい何時に起きたのか。私は同じようにスプーンを手にするヴィンセントを見つめた。
「………どうしましたか?」
視線に気付いたヴィンセントが首を傾げた。
「貴方は、どうして私に良くしてくれるの…?」
素朴な疑問だった。
ただの恩師というだけで私に好意を持っているのしては、やけに持続性がある。普通であれば学生時代の淡い恋は、学校を卒業すると共に手放すものだ。卒業して五年も経てば、新しい出会いの中で他の人に心変わりしたりするはず。
ヴィンセントは一瞬だけ目を丸くして、くしゃっと顔を崩して笑った。そんな子供みたいな笑い方も出来るのかと私は驚く。
「先生って面白いですね」
「だって、普通はお互いによっての利益があったりするでしょう?私は貴方に何も与えていないのに、貴方は…」
「じゃあ、先生はどうして僕を助けてくれたんですか?」
「え?」
「アカデミーで僕が停学を食らうような事をしていた時も、葬式に転がり込んできて図々しく居候を願い出た時も」
「…………、」
「どうして貴女は僕を救おうとしたんですか?」
黙り込む私を見て、ヴィンセントは微笑む。
アカデミーで彼を助けたのは自分のためだと思っていた。私のクラスで問題が起きることを恐れてのことだと。それはもちろん一つの理由ではあった。だけど。
彼の居候を快く受け入れたのは?
私はもしかすると、自分がそれまで与えられることのなかった対価のない愛を人に渡してみたかったのかもしれない。そうした優しさが、相手にどう影響するのか見てみたかったのかも。
まさか、ここまで育つとは思わなかったけれど。
「気紛れでも良いんです。僕は貴女に救われた」
「ヴィンセントくん、」
「きっかけが何であれ、僕は先生と暮らすうちに自分の気持ちは間違いじゃないと分かりました。知れば知るほど、どうしようもないぐらい好きになった」
真っ直ぐな言葉に私は思わず俯く。
目を見つめ続けるのは無理があった。
「だから、待てます。もう邪魔する人も居ないですし、先生の不安がなくなるまで、いつまでも僕は待ちます」
こくんと頷くのが精一杯で、顔を上げる勇気が出ない私の頭をふわっと撫でた後、ヴィンセントは席を立った。シンクから聞こえる水の音を聞きながら、私はとんでもない男に愛を植え付けたと反省する。
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