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キッチン
私は震える指で白いワイシャツのボタンを一つひとつ丁寧に留め、制服のジャケットを羽織った。出勤前の身支度を終えると、夫がキッチンに立っていた。
(あぁ、そうだ。)
私の勤務時間は不規則だった。
疲労困憊で玄関ドアを開けると、エプロンを着けた夫が笑顔で出迎えてくれた。部屋の中は温かく美味しい匂いがした。
私がテレビをぼんやりと眺めて「ハンバーグが食べたいなぁ。」と呟いた事があった。すると数日後にはダイニングテーブルの上に夫が作ったハンバーグが並んだ。食後のコーヒーを飲みながら一緒にYouTubeを見ていると、再生履歴に(ハンバーグの作り方)の動画が何本も表示されて夫は笑って誤魔化した。
ふと見ると、夫の手には愛用していた日本酒の徳利が握られていた。
「何してるの?」
「俺が帰って使う時、埃が入っていたら嫌でしょう?」
そう悲しげな笑みを浮かべ、徳利にラップを巻く。
「これ。」
次に夫はリビングの窓辺に向かい、今まで気にも掛けなかった鉢植えのアイビーの蔦に指を絡めた。
「これ、生きてるの?」
「うん。」
「そうか。じゃぁ、どれくらい伸びたか、見に戻らないとね。」
そう言って振り返る。
この部屋に夫が戻って来る。
本当にそんな日が来るのだろうか。
「うん。」
今夜、私がこの部屋の玄関ドアを開けた時、
この笑、
この声、
この温もりはもう、無い。
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