第68話

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第68話

 それから七海の意識が回復したという吉報をもらうまで、少しの時間を要した。生徒会長になってから、初めて学園に現れたのだ。  生徒会室で、生徒会メンバーの手伝いを総一郎と行っていると、ふらりと佳純は現れた。あまりにも顔色の悪いそいつを連れ出して、話を聞いた時に、七海の意識が回復したことを聞いた。しかし、佳純は苦し気で、問い詰めると、俺は絶望した。  なぜ被害者の七海が、関係のない佳純が、そんな悲劇を背負わなければならないのかと、膝から崩れ落ちそうになったのを覚えている。  七海は、強いフェロモンレイプと強制発情剤の後遺症で、アルファへの拒絶反応が強く残ってしまった。遺伝子が強く求めれば求めるほど拒絶が強くなる。運命の番である佳純への反応は驚くほど強いようだった。それでも佳純は、待つ、と言っていた。最愛の人のために、いくらでも待つと言った。自分をいくら犠牲にしてでも、七海との幸せを選びたいのだと言っていた。  絶望の深淵に落ちながらも、そう決意する友人を、俺は心から支えたいと思った。この二人を幸せにしたいと。俺にできることなら、なんでもしたいと申し出ると、佳純は眉を下げながら、微笑んだ。そして、ぜひ七海の話し相手になってくれ、と言われて、二つ返事で了承した。  風紀全員で大泣きしながら、総一郎や曽部ら三年生との別れ惜しんだ十二月。風紀が俺に代替わりをしても、学園が崩れることも、大きな問題が発生することもなくなった。暇を持て余した宇津田が毎週のように女を口説きまわっていること以外、変に風紀が乱れていることもない。その宇津田のことは、笹野が冷たい目であしらってくれているので、そちらにまかせている。  学園も落ち着いているため、俺は、七海のもとへ足を運んだ。  意識のある七海と対面することは初めてで、らしくもなく緊張していた。佳純が扉を開くと、大きなベッドの上に、華奢な少年が腰掛けていた。  俺を見ると、笑顔でこんにちはと挨拶をしてきた。色白の肌には血色が戻り、桃色の頬も唇も染まっている。長い睫毛に縁どられた瞳は吸い込まれるように黒く、潤んでいる。オメガらしい庇護欲そそられる可憐さがあるのに、妙な色気もある。これが、佳純の恋人か、とまじまじと見つめていると、七海が困ったように首をかしげていて、急いで姿勢を正し自己紹介をする。七海にうながされるままに、近くの椅子に腰かける。 「佳純から聞きました、鈴岡さんたちが、僕のためにたくさん動いてくれたって」  ありがとうございましたと、ぺこりと頭をさげると、さらさらと美しい黒髪が流れる。その際に、ふわ、と甘い匂いがする。しかしその甘さは複雑で、色々な匂いが混ざっている。甘いが、良い匂いとは思えなかった。おそらく、七海のオメガの匂いと、二人のアルファのにおいが混ざっているか、ホルモン異常によるものか何かなのだろう。出来えば、後者であってほしい。でなければ、近くにいる佳純がどれだけ苦しい思いをしていることか、想像がつかない。  あれだけつらいことがあったのに、七海は俺に微笑みかけてくれている。だからこそ、俺の前だけでも楽しい思いをさせたい、と頬を緩めた。 「いやいや~佳純とは幼稚舎からの腐れ縁ですけど、あんなに必死なあいつ、初めて見ましたから」  いいもん見せてもらいましたよ~と、いっしっしとわざとらしく悪い笑い方をして、ずいぶん後ろのソファに座った佳純を睨みつけた。七海は、目を見開いて、驚いていた。 「佳純が、ですか…?」 「そうそう。あいつ、幼稚舎の頃から泣きも笑いもしないから、俺はサイボーグなんだとしばらく思ってたなあ」  サイボーグ…と口の中で七海は反芻させると、くすっを笑った。手元に手をあてて、くすくす笑う様子は花のように可憐で愛らしかった。 「一回、佳純が左瞼をぱんっぱんっに腫らした時があって、何かと聞くと、幼稚舎の裏庭で蜂にさされたっつって、平気で教室に座ってやんの。本人は顔色一つ変えないのに、周りの人間は全員顔面真っ青で大慌てしたこともあったよな」  なあ、と後ろに笑いかけると、佳純は仏頂面で、うるさい、とだけ言った。 「い、痛くないの…?」  げらげら話していると、七海は顔面蒼白にして、震えていた。じ、と佳純を見て黙っていると、視線に耐えかねた佳純が、小声で、別に…と答えた。 「こいつ、人として必要なものが色々死んでるから」  笑いながら話すが、七海は、視線を落して寂しく笑った。 「おい、佳純…客人に茶のひとつもないのか…」  ぎろ、と佳純を睨みつける。 「もうすぐ、持ってくると思うが…」 「お前がくんでこい。今すぐ、ゆっくりとだ」  俺の視線に気づいたのか、佳純は席を立ち、変なこと言うなよ、と釘をさしてから静かに部屋を出て行った。それを確認してから、ゆっくり七海に向き直り、出来る限り柔らかく微笑みかけた。 「初対面の俺に聞かれても困ると思うけど…調子はどう?」 「おかげさまで、ずいぶんいいですよ」  建前の笑顔を貼り付けた七海に、唇をとがらして答える。 「そんな他人行儀やめてくれよ。俺、七海とは末永く友達でありたい」  本心だった。七海の笑顔を見れば、この人がどれだけ心穏やかで優しい人なのかがよくわかる。そもそも佳純を手懐けた時点で、おそらく人間がすごくできている人なのであろうことは予想をしていた。  おまけに、腐れ縁でつながった佳純と俺は、これからのその縁は切れない。だからこそ、その佳純と深くつながっている七海とも、切れない縁でつながっていくことが予想された。  俺のふてくされ顔に、破顔した七海は、身体の緊張をいくらか解いたように見えた。 「そんなこと言ってもらえるような人間ではないのですが…」  嬉しいです、と、また寂しく笑う。やはり、あれだけのことがあったのだ。確実に、あの事件が彼の心を蝕んでいることがわかり、拳を握った。 「…んで、どうなの、実際」 「一人でいる分には、体調は悪くないんです…」  わざわざ、一人で、と付け加えた七海のメッセージをきちんと受け取る。佳純と七海の気まずげな雰囲気がようやく理解できた。やはり、アルファへの拒絶反応から、七海は自分を攻めている。七海自身を攻めることを佳純は嫌なのだが、あのサイボーグはどうしていいのかわからずに手ぐすね引いているのだ。  はあ、と大きく溜め息をつくと、七海が慌てて、ごめんなさいと誤ってきた。 「いやいや!違う!あのバカタレが情けねえだけ!」  急いで両手を振り、七海に弁解する。しかし、俺の言葉を聞いて、七海も言葉を重ねた。 「違います!佳純は、すごく優しいです…こんな僕でも、傍にいてくれて、優しく、してくれています…」  俺をまっすぐ見た瞳は、どんどん沈んでいってしまう。  こんなにもお互い思い合っているのに、うまくつながらない二人に胸が痛む。 「いんや…あのサイボーグはダメだ…七海こそ、乗り換えるなら今じゃね?」  アルファのお前がしっかりしないでどうすんだよ、と頭を抱えて重く溜め息をついた。それに、七海は驚いた顔をしていたが、しばらくすると、くすりと笑った。 「僕が佳純を捨てるなんてありえません…」  ほんのりと頬を染めてつぶやく横顔は、恋する少女そのもので、今すぐ抱きしめてしまいたかった。 「じゃあ、七海が鍛えるしかねえよ」  拳をもう片方の手のひらにたたきつけて、肩をぐるぐると回す。七海は大きな瞳を零しそうなほど見開いてから、声を出して笑った。 「一体、何を鍛えるんですか」 「いいか、だらしない彼氏は、調教してやるしかないんだ」  顔を寄せて小声で伝えると、さらに七海は朗らかに笑った。  ぜひ教えてください、と言うので、俺は得意のプロレス技について話をしだした。ちょうど盛り上がっているところに、茶請けを用意した佳純が入ってきて、柔らかく笑う七海を見て、顔をゆるめていた。  そのあと、三人で座って用意された紅茶と、できたてのスコーンを食べて、佳純の昔話を披露する。佳純は終始嫌そうな顔をしていたが、愛らしく笑う七海を見ては、何も言えないようだった。こんなに佳純がべた惚れなのに不安になっている七海を思い出して、アルファとオメガには、俺にはわからない難しさもあるのかもしれない、と一人寂しい帰り道に思いをはせた。
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