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41.急展開
それらしい言葉を交わさなくても、俺と碓氷は新しい関係性に自然になじんでいった。俺の中ではまだ、鹿山に対しての怒りは収まっていない。しかし仕事も忙しいし、わざわざ鹿山に会いに行くのも違う気がした。何よりも、コテージから帰ってきてから碓氷は目に見えて穏やかになっていったから、あの日のことを蒸し返すべきじゃないと感じた。
碓氷の仕事も、新しい取引先が二件決まったとかでにわかに忙しくなっていた。それぞれの仕事をこなして、一緒に食事をし、他愛もないことを話して笑い、その隙間にキスをしたりハグをしたり。それ以上のことは週末や連休に。それで十分満ち足りていた。
「専務からお電話です」
緊張した面もちの綿矢が子機を手に小走りでデスクに走り寄ってきた。内線ボタン一つで済むはずなのに、わざわざ子機を持ってきた綿矢に「わかった」と言ってそれを受けとった。多分非常事態なのだ。お待たせしました、と俺が言うと、聞いたことのないような低い声で、専務が「ああ」と言った。明らかに機嫌が悪い。
「日乃浦です」
「わかってる。いったいどういうことだ」
「・・・・・・あの?」
「土地のことだ。今すぐ説明しろ」
「申し訳ありません、何のお話でしょうか」
俺の言葉を遮るように、とぼけるな、と専務が怒鳴った。
専務は、土地の権利書は偽物だろう、と言った。最初は何を言っているのかよくわからなかったが、話が進むにつれ、俺の背筋は凍り付いていった。
ある日本社に届いた郵便物。それは俺が碓氷から預かった権利書のコピーだった。同じものかと思いきや、現在の所有者の名前だけが違った。所有者は「鹿山正則」。そして一通の手紙が同封されていたという。
大迫製菓の北海道支社長、日乃浦旭は碓氷双一と懇意になり、私利私欲のために碓氷に偽の権利書を作らせた。本当の権利は鹿山正則にあり、この土地を工場拡張のために使うことは許さない、何かあれば裁判に持ち込む、といった内容だというのだ。手紙には弁護士の名前も記載されていた。
専務は苛ついた声で言った。
「日乃浦。碓氷双一っていうのは何者なんだ」
「お話ししたはずですが、亡き鹿山勢太郎氏の甥で・・・・・・」
「血は繋がってないというじゃないか」
これは全てを知っているのに言わせようとしている。
「ですが、息子同然だったと」
「鹿山正則は実弟だ。どう考えても正当な後継者はこっちだろうが! お前は一体、碓氷双一と何を企んでるんだ?」
正則と勢太郎が腹違いの兄弟だということは調べればすぐにわかるはずだ。しかし今それを言ったところでこの男は引かないだろう。俺は語気を強めて答えた。
「何も企んでいません。鹿山正則氏とも顔見知りですが、今回の件には無関係のはずです」
「無関係なのは碓氷双一なんじゃないのか。だいたい、懇意っていうのは、またあれか?」
あれ。言葉の中に滲む軽蔑の感情。そう言えば忘れかけていたが、専務は娘と俺の婚約破棄の一件で、俺のセクシュアリティを知っている。
「お前はまだそんなことをやってるのか? それを仕事に持ち込むとは何事だ?!」
「な・・・・・・っ・・・・・・」
「鹿山正則の弁護士が、お前と碓氷双一の関係性を調べたそうだ。一緒に暮らしているそうだな?」
「・・・・・・下宿させてもらってはいます」
「下宿?」
電話の向こうの専務が、はっ、と嘲笑の声を上げた。
「お前の収入で下宿だと? なんなら新築マンションでも買えるだろうに」
俺は言葉を詰まらせた。そこは一番痛いところだ。確かに金に困って下宿させてもらっているわけではない。
「田舎に行ってまで男漁りか。ずいぶん楽しんでいるじゃないか」
「誤解です。私が受け取った誓約書は確かに本物ですし、鹿山正則氏が送ってきたというコピーは・・・・・・」
「何度も言わせるな、鹿山正則は実弟だぞ! どう考えても権利があるのはこちらだろうが! 社長にもそう伝える!」
幸か不幸か、まだ社長の耳には入っていないらしい。俺は息を吸い込み、腹に力を込めていった。
「待ってください! どちらの権利書が本物なのかはっきりさせてください! 一週間・・・・・・いえ、三日いただければ!」
「何を言ってるんだ?! そんなの調べなくとも・・・・・・」
「お願いします! もしそれで正則氏の方が本物なら、私は責任を取って辞職します!」
「・・・・・・何だと?」
しまった、と思った時はもう遅かった。口が滑った。しかし。
「本当だな?」
俺には確信があった。碓氷が嘘をつくはずがない。
「はい」
「わかった。三日、社長に報告するのは待ってやる。この件をはっきりさせろ。三日後にまた電話する」
かしこまりました、と答えながら、俺は力一杯拳をにぎりしめていた。
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