サツキツツジの季節に

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 空気の質がいつもとは違う。  変化量はごくわずかだが、一枝百合梨は教室に足を踏み入れた瞬間、被害者ならではの敏感さで異変を察知した。  冷ややかさは昨日までと変わりない。しかし今日はそこに、嘲笑するのを意識的に自重しているような気配が混じっている。  教室に入ると同時に、百合梨は窓際最後列の席を意識していた。教室内の空気の違いを感じたからではなく、習慣的自動的な反応だ。  問題の席では本日も、川真田樹音とその取り巻きたちが一群を形成している。彼女たちは一人残らず、にやついた顔で百合梨を見ている。  五月もまだ初旬だというのに、肌がうっすらと汗ばむ。百合梨は意味もなくスクールバッグの肩紐をかけ直し、自分の席へ。  複数の視線が百合梨の移動を追う。川真田たちはもちろん、他のクラスメイトたちや、さらには、教室後方の壁を埋め尽くす書道作品――墨汁で半紙にしたためられた「青春」の二文字までもが。  自分の席に到着する一歩前、百合梨は天板の上に異常を発見した。  便器を思わせる色合いと質感の陶製の花瓶が置かれている。昨日までは、そんなものはその場所にはなかった。活けられているのは、白い水仙の花。 「一枝、ごめーん」  百合梨が自分の机にたどり着いたのと、声が飛んできたのは同時だった。人を見下した笑いをふんだんに含んだ、耳障りな高音。川真田樹音。  音源を振り向くと、樹音は女子生徒数名を机の周りにはべらせ、椅子にふんぞり返ってにやにや笑いを浮かべている。百合梨と目が合うと、口元の笑みを深めて、明るい茶色に染めた髪の毛をかき上げた。 「あたし、今日の日直なんだけど、花瓶置く場所間違えちゃった。悪いけど、先生の机に戻しといてよ」  ボス猿の発言に、取り巻きたちがいっせいに笑った。音量こそ控えめだが、しっかりと百合梨を馬鹿にしている。百合梨を嘲笑うのが目的だとはっきりと分かる。  スクールバッグを机の横のフックにかけ、花瓶を両手で持ってみる。水が満杯近く入っていて、ずっしりと重い。  樹音が言った「先生の机」とは、教室前側中央の教卓ではなく、前側窓際に置かれた事務机を指す。  百合梨はこれから、水仙が活けられた花瓶をそこまで持っていく。  机の上に花瓶を置き、自分の席に帰る。ただそれだけの簡単な作業なのに、なぜなのだろう、とても億劫に、なおかつ難儀だと感じるのは。  歩き出したものの足取りは重い。一歩床を踏みしめるごとに、花瓶が少しずつ重量を増しているように感じられる。 「『ご冥福をお祈り申し上げます』とかなんとか、机に書いておいたほうがよかったかな? わかりやすく」 「備品に落書きはやばいって。ちょっと前に男子がそれをやって、停学を食らうレベルで怒られてたじゃん。もう忘れたの?」 「忘れてはいないけどさ。だって一枝、気がついてなくない? あたしたちが葬式ごっこをやってるってこと」 「さすがに気づいてるでしょ。顔に出さないだけで。いじめられているやつって、そういう方面には察しがいいから」  百合梨の顔をしきりにうかがいながら、樹音たちは言葉を交わしている。ひそめているふうを装っているが、その実、いっさいの制限をかけていない声で。  わかってる。わかってるよ、そんなことくらい。  役目を終えて席に戻った百合梨は、心の中で陰気に呟きながら、スクールバッグの中の教科書類を机にしまっていく。  川真田さんが花瓶をわたしの机に置いたのはわざとなのも、葬式の花に見立てる意図があったのも、わたしが惨めないじめられっ子なのも、わかってる。みんな、みんな、なにもかも。  黙々と手を動かしているあいだ、百合梨は絶えず水仙の花の残り香を感じていた。  緩やかに消えゆく匂いの幽霊は、彼女を嘲りも慰めもしない。  五月。  風は薫り、草木は枝葉を広げ、空が晴れ渡る日が多いにもかかわらず、どこか物憂い季節。  転校生・一枝百合梨は、どうしようもなくいじめられっ子だった。  友だちが欲しい。環境が変わった今年が絶好のチャンスだ。今年こそは友だちを作りたい。いや、絶対に作るんだ。  一か月と少し前に心の中で立てた誓いは、今となっては虚しい。 「一枝、悪いけど頼めるかな? プリント、職員室まで持っていってよ」  窓際最後列から樹音は告げた。教室のほぼ中央にある自席に着いた百合梨に宛てての発言だ。  つい先ほどまで授業を行っていた数学教師の芦原は、前回の授業でプリント二枚分の宿題を出していた。芦原は授業後に宿題を集め、職員室まで届けるように本日の日直に言いつけ、チャイムが鳴るなりさっさと教室を出て行った。  休み時間が始まって約二分。教卓の上には全員分のプリントが出揃っている。 「お前友だちいないし、やることなくて暇だろ? 頼むよ、一枝」 「あ……うん。わかった」  返事をして席を立つ。緊張すると声が小さくなる悪癖があるので、意識して声を張るようにした。  二つの束を同時に胸に抱えるのは難しそうだ。サイズと色が同じなので境目が曖昧になってしまうが、一束にまとめて運ぶことにする。  ただ、滑りやすさを過小評価していたのは迂闊だった。  前から歩いてきた生徒を避けようとしたさいに、束が崩れた。教室を出て約十歩、すぐ先にある角を曲がれば下り階段、という地点でのことだ。上から三分の二が床に落ちたうえに、慌てたせいで、残っているうちの半数までもが追加で落下してしまった。  散らばったプリントを見下ろす百合梨の脳裏を、彼女の背丈よりも少し高い位置に貼り出された無数の紙が、いっせいに舞い落ちる映像が流れた。  紙の落下地点は、散乱したプリントと寸分の狂いもなく輪郭を重ねた。全て白紙に見えたが、一枚だけ、表面に大きく「青春」と書かれた例外がある。全体的に肉細、覇気のない筆致は、百合梨が書いた作品で間違いない。  はっと我に返った。眼下に散らばっているのは書道作品ではなく、プリント。百合梨はその場に屈んで拾いはじめた。  せっせと手を動かす百合梨の左右を、制服姿の有象無象が通り過ぎていく。手を貸す者は一人として現れない。歩を緩めて、傍観者の目つきでじろじろと見てくる者がたまにいるだけで。  惨めさが胸を衝くことも、プリントをつまむ指先が震えることもない。むしろ、しっくりくる。無心で黙々と作業をこなす。 「あ」  不意に耳に届いた声に、百合梨は顔を上げた。  男子生徒が散乱したプリントの海の外縁ぎりぎりで足を止め、彼女を見下ろしている。毛先が少し縮れた短い黒髪。臆病な草食動物を思わせる小さな目。  クラスメイトの森嶋隼人だ。  隼人は百合梨とは目を合わせずにその場に屈み、プリントを拾いはじめた。  胸の底に温もりを感じる。鼓動は少し速くなった。プリントを早く集めないと、という思いは、落としたばかりのころよりも強い。それでいて焦りはないという、不思議な精神状態だ。  百合梨は隼人から同情的な視線を感じることがしばしばあった。ただし、注がれる時間はそう長くないし、彼女から目を合わせても瞬時に逸らされてしまう。  隼人は明らかに、いじめの被害者である一枝百合梨に同情しているのを、川真田樹音たち加害者に知られるのを恐れていた。  消極的かつ間接的ではあるが、百合梨の味方になってくれる人間は森嶋隼人だけではない。彼よりもいくらか抑制的だが、折に触れて同情の眼差しを投げかけてくれる生徒が、女子を中心に数人いる。  ただ、彼らは一度として、被害者に具体的な救いの手を差し伸べたことがない。川真田樹音を恐れているからだ。森嶋隼人だって、たとえば百合梨がプリントを落としたのが、教室の中などの樹音たちの目が届く場所だったならば、絶対に手は貸さなかったはずだ。  そう思うと複雑な気持ちだが、手伝ってもらった嬉しさはちゃんと感じている。  ただでさえ味方は少ないのに、行動を起こしてくれる人間はさらに少ないのに、味方だと行動で示してくれて嬉しくないはずがない。 「ありがとう」  差し出された束を受けとり、百合梨は少しはにかみながら礼を言った。プリントを拾ってもらっただけにしては、顔が浮かんでいる表情が明るすぎる気がして、ほんの少し頬が熱くなる。  隼人はどこかぶっきらぼうに小さくうなずき、教室のほうへ去った。  百合梨は職員室へと急ぎながら、胸に抱えた束を見下ろす。  隼人は二種類のプリントを別々に集めてくれた。とても誠意ある対応で、文句をつけようがない。  それだけに、樹音たちに対しては全くの無力なのがもどかしい。  役立たず。  言葉は悪いが、いじめ問題に関していえば、それが隼人に対する絶対不動の評価だ。  役に立たないのは教師も同じだ。樹音たちの加害行為が、現時点ではそう酷いわけではないのを差し引いても、百合梨の被害に気がついていないのは情けない。  だからといって、被害者である百合梨自ら訴えたところで、問題の解決に尽力してくれるとは思えない。これまでに教室で起こったトラブルへの対応を見た限り、きっとそうだ。  無関心。無責任。事なかれ主義。話をまともに聞いてくれなさそうだし、問題解決能力自体にも難がありそうだ。  教師に相談したことが川真田たちにばれれば、報復される可能性も当然ある。被害を思い返し、整理しながら話すのだって、精神的な重労働だ。  踏み出す前から悲観しすぎている気がしないでもないが、頼りにならなさそうな人間に頼るのが得策だとは思えない。  前途は暗い。  それでも前に進まなければならない、という絶望。 「失礼します」  職員室のドアをノックしたあと、決まり文句を発した声には、十四歳らしい瑞々しさがどうしようもなく欠落している。  夕食に呼ばれてダイニングに行くと、父親の靖彦がタンクトップ姿で冷ややっこをつついている。 「ああ、百合梨」  一人娘に気がつくと、食べ物を咀嚼しながら話しかけてきた。 「湯豆腐よりも冷ややっこが美味しい季節になったな。薬味、母さんがたっぷり用意してくれているから、たっぷり入れて食べろ」  百合梨は父親の発言の全てに同意しかねた。冷ややっこが美味しく感じられるのは、靖彦が風呂上りで体が温まっているからで、今日は五月にしては気温が低めだ。薬味はアクセントとして少量使うからこそ美味しいのに。  百合梨は着席し、「いただきます」と言って箸を手にする。キッチンから唐揚げを揚げる匂いと音が流れてくる。百合梨は絹ごし豆腐に少量の薬味としょうゆをかけて食べはじめる。  斜向かいに座る父親は視界に入れないようにした。タンクトップの腋からちらつく、縮れた黒い毛が目障りだからだ。  不愉快なのは映像だけではない。咀嚼音、安っぽい石鹸の匂い、どうでもいい話題を振ってくること。  百合梨は思春期に足を踏み入れて以来、父親のささいな言動が鼻につくようになった。  この年ごろの少女は、誰しも男親に対して嫌悪感を抱くものだから、仕方ない。  最初はそう割りきっていたが、転校してからは耐えがたさが跳ね上がった。自分からは父親にめったに話しかけなくなったし、話しかけられても生返事ばかりするようになった。  百合梨がよかれと思ってとったその対応は、逆効果だった。靖彦は「娘ともっとコミュニケーションをとらなければ」という思いを高めたらしく、先ほどの「冷ややっこが美味い季節になった」のような、百合梨を無性にいらつかせる発言を頻発するようになったのだ。 『お父さん、わたしにみだりに話しかけないで。わたしは思春期の女子中学生なの。清潔感がない異性の親は、この世界で一番話をしたくない相手。お父さんだって、中学生の娘なんて、この世界で一番話しかけづらい相手でしょ。だったら、無理に話しかけてこなくていいから、黙って食事して。次に一言でも余計なことを言ったら、その瞬間に舌を噛みちぎって自害するから』  そう言ってやろうかとも思ったが、実行には移さなかった。他人につまらないちょっかいをかけるような男ほど自尊心が強い。それを傷つけたら余計に面倒なことになる、と考えたからだ。  なにを言われても無視して、我慢して、いらいらを溜め込んできた。  空き容量にはまだ余裕がある。ただ、減らす方法がないから溜まっていく一方だ。  この不快感、どうにかならないものか。  ただでさえ学校でいらいらを溜め込んでいるのに、こんな不愉快な重荷、いつまでも背負っていられない。さっさと手放してしまいたい。 「おまたせ。多めに揚げたから時間かかっちゃった」  揚げたてのから揚げが盛りつけられた大皿を手に、麻子がダイニングまでやってきた。本日のメインディッシュがのった皿をテーブルの中央に置き、夫の隣の椅子に座る。  靖彦は待っていましたとばかりに、職場での愚痴を話しはじめた。一か月が経ってようやく新しい環境にも慣れたが、同僚の馴れ馴れしさが鼻につくようになってきた、という趣旨だ。  しゃべる内容が他者への非難となったことで、靖彦の咀嚼音はいっそう汚らしさを増した感がある。麻子が食べながらしゃべることにクレームをつけず、から揚げを自らの取り皿に淡々と移動させているのも、その印象を高めるのに一役買っている。  靖彦は数日前、今語っているのとは正反対の話をしていた。工場長の弟だからということで、同僚たちが自分に変に気をつかうのが居心地悪い、と文句を垂れていたのだ。靖彦の非難の対象は日替わりだった。  父親は当分のあいだ、真の意味で同僚との関係に満足することはなく、家族で食卓を囲むたびに彼らに物申しつづけるだろう。  一方の麻子は、少し前まではパート先の同僚に対する不満を愚痴ってばかりいたが、今ではなにも言わなくなった。  人間関係にまつわる問題がそう簡単に解消されるとは思えない。解決を放棄したのだ。  凡庸な中年の兼業主婦らしからぬ達観した態度は、百合梨をいら立たせた。クラスメイトからいじめられている現実があるこそのいら立ちだ。  この人はきっと、わたしが勇気を奮って被害を訴えても力になってくれない。ひょっとすると、慰めの言葉一つかけてくれないかもしれない。  そう思うと、怒りは萎み、泣きたい気持ちになる。  絵に描いたような田舎ではないが、以前住んでいた県庁所在地と比べればうんと鄙びたK町に引っ越して以来、百合梨は閉塞感を覚えている。  大きな不幸に見舞われたわけではない。しかし、全体的に悪い。そしてその悪い要素は、どれもが日に日に悪化している。  川真田樹音を中心とする女子グループからのいじめがその筆頭だ。最初は軽いからかいの言葉をかけてくるだけだったが、今や暗黒のごっこ遊びに巻き込んでくる段階に入った。いっときよりも事態が悪化したのだから、今後はおそらく――。  百合梨の思案はそこで途切れた。暗いな、とふと思ったのだ。彼女の心の中もそうだが、部屋自体もそうで、テーブルの上の料理が色あせて見える。天井を見上げると、LED電球の光は明らかに陰っていた。  そういえば、そろそろダイニングの電球を替えたほうがいいんじゃないか、という話が食事中に出た記憶がある。たしか、もう何日も前に。  それにもかかわらず、いまだに誰も着手していない。  おそらく、理由は単純だ。  手間がかかるから。面倒くさいから。同じ型の電球を買いに行き、古い電球を取り外し、新しいものを取りつける。以上の作業を完了させるのは手間がかかり、面倒くさい。だから、誰一人として取り組もうとしない。  指を鳴らせば新しい電球にぱっと切り替わる――そんな魔法が使えたらいいのに。  両親の毒にも薬にもならない会話を聞き流しながら、そんな子どもじみた願いを心の中で唱えた。  十四年と少しの人生を隅々まで振り返っても、今ほど惨めな帰り道は記憶にない。  夕方に大雨が降る予報だったにもかかわらず傘を持参せず、雨具を貸してくれる友人、貸してと頼む勇気、どちらもなく、ずぶ濡れになって帰宅したいつかの夕方も、今日ほどの惨めさには襲われなかった。シャワーを浴びて新しい服に着替え、ホットミルクを飲みながら大好きな音楽を聴いているうちに、過去最低と評価を下した惨事のことなどすっかり忘れていた。  しかし今回の悲劇は、どう足掻いても記憶から消し去れそうにない。シャワーでも、ホットミルクでも、お気に入りの楽曲でも。  通学に使っている自転車の前輪のタイヤがパンクしていたのだ。  登校するさいには異常はなかった。家を出るのが少し遅れたので飛ばしたが、不具合が発生するどころか違和感すら覚えなかった。  それが放課後、さあ帰ろうと愛車を漕ぎ出したところ、車輪が上手く回らずに片足をついた。五メートルも進まなかった。ただちに降りて原因を探した。そして、前輪のタイヤから空気が抜けているのを発見した。  原因に心当たりはなく、首を傾げた。しかし、とにもかくにも教師に事情を説明して空気入れを借り、タイヤに空気を注入した。膨らまなかった。タイヤがパンクしているのだ、と遅まきながら気がついた。 「川真田さんたちの仕業、かな」  駐輪場に停めてあるあいだに、誰かからなにかをされたのは間違いない。被害者が一枝百合梨である以上、犯人はまず間違いなく川真田樹音とその取り巻きたちだ。  惨めさを噛みしめながらの帰り道となった。自転車を押しているという状況、それ自体が耐えがたい。植樹帯に植わったサツキツツジの優しくも鮮やかな赤色が、心境にそぐわなくて気持ち悪かった。今が花盛りのはずだが、縁をきつね色に枯らした花もちらほら見受けられ、汚らしいと感じた。  帰ったとしても、心躍るイベントが待ち受けているわけではない。だとしても、早く帰りたい。  そこで、近道を使うことにした。  短縮できる時間は約二分。急いでいないときはたかが二分だが、急いでいるときは砂漠の水にも等しい二分になる。今朝の百合梨は後者で、ためらいなくその道を利用した。  逆にいえば、前者の場合は利用を避ける。道の両脇には人家が全くなく、広がっているのは雑草もまばらな空き地ばかり。昼間でも不安感を催すような、寂しげで薄気味悪い雰囲気が漂っているのだ。  敬遠する理由はもう一つある。  その道の中程の西側に、その道に建っている唯一の人家がある。といっても、人が住むには小さすぎる木製の小屋だ。噂によると、住人は年齢不詳の男で、一人暮らし。風変わり、怪しげ、危険そう、などと評されることが多い。  百合梨が転校して間もないころ、まだいじめられっ子の立場が確立される以前に、クラスメイトの女子が怪談でも語るように解説してくれたことがある。 『その男の名前はトモノリっていうの。本名なのかあだ名なのかは知らないけど。風の噂によると、トモノリは街に住んでいたころに大きな罪を犯して、はるばるこの町まで逃げてきたんだって。詳細は不明だけど、とにかく重い罪だそうだから、殺人とか強盗とかじゃない? とにかく危険な男みたいだから、一枝さんもみだりに近づかないほうがいいよ』  樹音に目をつけられなかった世界線では、友だちだったかもしれないその女子の忠告を、百合梨は真に受けなかった。「知らない」「わからない」ばかりで、噂話に尾ひれがついたとしか思えなかったからだ。  初めてその道を通るときは、脚が震えそうになるくらい怖かったし、緊張もした。しかし、自転車で駆け抜けてしまえばあっという間だった。古くも新しくもない木造の小屋は、謎の人物の根城感は全くなく、単なる物寂しい田舎の風景の一部でしかなかった。  通りの雰囲気が快いものではないのは事実なので、無条件で気軽には利用できていない。しかし今朝のように、急いでいるときはためらいなく通っている。  百合梨は自転車を押しながら問題の近道に 入った。  漕いでいるときと比べると移動速度は格段に遅いので、この道特有の暗鬱とした雰囲気を長く味わわなければならない。  パンクさせられた怒りを忘れていられるから、ちょうどいいや。  心の中でそううそぶいてみたものの、どう足掻いても気持ちが安定してくれないこの感じ――やはり不快だし、苦痛だ。  引き返そう、引き返そうと思いながらも、一人と一台は道を直進し続ける。  道のりの半分ほどを消化したころ、思いがけない光景を目にして歩みは止まる。  小屋のすぐ外の地面に、一人の男が座り込んでいるのだ。  彼女の全身は氷漬けになった。うらはらに体温は上昇し、鼓動はテンポを速める。風が強まったわけではないのに、木々が揺れる音がやけに耳につく。  とてもではないが歩き出せそうにない。引き返す方向にも、進む方向にも。  双眸を見開き、約十五メートル先にいる男の動きを観察する。  男は上下がひと続きになった鼠色の作業着を着ている。中背で、細身。目の前の地面には、何枚かの大きなベニヤ板が広げられていて、男は巨大な金属製の定規と鉛筆を使って板に線を引いている。素人目には慣れた手つきに見える。漂う雰囲気はどこか物憂げで、そこはかとなく物悲しい。  たとえるなら、捨て犬を見かけたときの憂愁であり、哀愁だ。目頭が熱くなるわけでも、嘆かずにはいられなくなるわけでもない。しかし、立ち去りがたい。つい見つめてしまう。彼が背負っている運命に想像を巡らせずにはいられない。  あの男が、クラスの女子が言っていたトモノリらしい。  口をつぐんで、足音を殺して通り過ぎよう。そう方針を固める。トモノリは作業に没頭しているようだから、その隙に。  百合梨の脳内では、LED電球が暗い光を放っている。電球は、トモノリとの距離がある程度縮まったのを境に明滅しはじめた。近づけば近づくほど、痙攣が走る間隔が縮まっていく。  彼女は昨日の夕食時、電球を一瞬にして明るいものに交換する魔法を願ったが――。 「その自転車、パンクしてるね」  透明感のある低い声に、百合梨のローファーの靴底は路面に吸いつけられて停止する。同時に、脳内で明滅していた電球が消えた。  心臓は破裂しそうなくらいに激しく拍動している。口腔の唾を飲み下すことさえできない。  ばれた。声をかけられた。トモノリに。素性が知れない、犯罪歴があると噂されている人物に。周囲には人家も人気もない場所で。  トモノリは自転車、百合梨の顔の順番に視線を注いだ。 「前輪かな。押して歩くのも大変だっただろう。K中学校からだとすると、なかなかの距離を歩いたことになる」  顔は青白く、表情と呼べるものは浮かんでいない。二十歳と言っても通用しそうだし、五十歳と言われればそう見える、不思議な顔立ちだ。砂埃がかかっているのか、白髪が混じっているのか、丸刈りにした頭がところどころ銀色に輝いていて、それが奇妙な印象を強化している。  見つめられて、声をかけられても、百合梨はトモノリが怖いとは思わなかった。なにをしてくるかわからないという意味で緊張はあるが、攻撃的な雰囲気が皆無で、危害に加えてくる気配を感じないのだ。 「君がよければ、僕がパンクを修理してあげる。少しのあいだ、僕に自転車を預けてくれないかな。十五分もあれば済むと思う」 「え……」 「道具は揃っている。小屋の中にいろいろと置いてあるんだ。タイヤのパンク修理のための道具もね。僕のことが怖いなら、自転車だけこちらに渡して、君は離れた場所から見ているといい。もちろん、僕は君にも自転車にも損害を与えるつもりはないよ。どうしても怖いのなら、断ってくれても構わない。どちらを選ぶかは君の自由だ」  トモノリは抑揚をつけずに淡々としゃべる。信頼できる人物なのでは、とも思ったし、罠にかけようとしているのでは、とも疑った。百合梨はまたしても二者択一を突きつけられたのだ。  彼女は十数秒にわたって逡巡し、口腔にたまった唾を呑み下した。それを合図に、自転車とともにトモノリへ向かう。  最初の一歩を踏み出した瞬間が緊張のピークだった。視線を感じるが、不快ではないし怖いとも思わない。  彼から四・五メートル離れた場所で自転車のスタンドを立て、踵を返す。少し駆け足になる。しかし、怖くてたまらなくなって、一刻も早くトモノリから遠ざかりたくて、そうしたわけではなかった。  近づいたさいに一瞥したベニヤ板には、無数の幾何学模様が描かれていた。設計図かなにかだと思われるが、詳細はわからない。板のかたわらに、シンプルなデザインの小さな砂時計が置かれているのも見た。  トモノリは前輪を目と手でチェックし、自転車をその場に置いたまま小屋の中に入る。開いたドア越しに、巨大な棚があり、隙間なく物が詰め込まれているのが見えた。中は薄暗く、なにが収納されているのかまではわからない。  彼は三分ほどで小屋から出てきた。右手に空気入れと象牙色の洗面器、左手にアルミ製らしき扁平な缶を持っている。  小屋の外にある蛇口を捻って洗面器に水を張る。ていねいさと素早さが両立した手つきで前輪からチューブを取り外す。空気入れを使ってチューブに空気を注入する。チューブの位置を少しずつ変えながら洗面器の水に浸ける。パンクした箇所を探しているらしい。  チューブが引き上げられた。雫がしたたるそれを手に小屋に入り、純白のタオルで水気を拭いながら再び出てくる。放り投げられたタオルは、吹き抜けた風に少し流されてベニヤ板の一端に被さった。  金属製の缶からシールらしきものを取り出し、パンクした箇所に貼りつける。プラスチック製のヘラのようなもので入念にこする。空気入れでチューブに空気を入れると、一方的に膨らんでいく。チューブを前輪に取りつける手つきは、取り外すときと同じく迅速だ。  トモノリは道具類を小屋の壁際に片づけると、自転車を押して百合梨へと近づいてきた。前輪はスムーズに回転している。 「直ったよ。どうぞ」  ハンドルが託される。トモノリの物理的な接近を無意識に許可していたことには、ハンドルのほのかな温もりを感じた瞬間に気がついた。作業着からは鉄っぽい匂いがした。  彼は少し距離をとって百合梨に向き直る。ぞっとするくらいに澄んだ黒曜石の瞳が百合梨を見つめる。 「もう乗っても大丈夫だよ。怖がらなくてもいい」 「ありがとうございます。……でも、どうしてこんな親切を?」 「修理のための道具を持っているし、直すのにそう時間はかからないからね。見知らぬ人間から無償で奉仕されて、気持ち悪いと思ったかもしれないけど、見返りを求めるつもりはないから。ただ、一つ気になったことがあるんだけど」 「……なんですか」 「タイヤの穴、人為的に開けられたものだね。アイスピックかなにか――詳しくは分からないけど、先が尖った道具を使ったのかな」  百合梨ははっと息を呑んだ。図星をつかれた驚きが過ぎ去ると、目頭が熱くなった。そのまま涙となってこぼれ落ちそうな熱さだ。ハンドルを握っていなければ、制服の胸を握りしめたに違いないくらい、心が乱れた。 「君はK中学の生徒だよね。何年生? 名前は?」 「……答えなければいけませんか?」 「できれば答えてくれると嬉しい。パンクを修理した見返り、ではないけど」 「一枝百合梨。二年生です」  トモノリは小さくうなずいた。 「みんなから孤立している僕にはできないことも多いけど、逆に、そんな僕だからこそできることもある。なにか困ったことができたなら、気軽にここまでおいで。またね、一枝さん」  百合梨はホットミルクが好きだ。  冷たいミルクは喉が受けつけない。加熱していないミルクは、味の底に動物的な生臭さが残っているようで、いつまで経っても好きになれない。  冷たい飲み物が美味しく感じられる季節になり、百合梨の自室にホットミルクのマグカップが持ち込まれる頻度も減った。代替品を見つけるのには日々苦労させられているが、今宵は例外だ。  飲み物ではない。物ですらない。想念。それを脳内で弄ぶ。さながら口寂しさをホットミルクで埋めるように。  トモノリ。苗字はわからない。どんな漢字を書くのかも知らない。トモノリ、ただその四文字。  噂には聞いていたが、出会ったのは今日が初めての、謎の人物。彼に思いを馳せるだけで、ホットミルクなしでも空虚感とは無縁でいられる。  善人なのかはわからない。たしかに親切は受けたが、企みを内に秘めて、打算のもとに親切を働く人間はこの世界にいくらでもいる。  ただ、思ったよりも怖くなかった。拍子抜けしたと言ってもいいくらいだ。最初こそ少し怖かったが、初対面の人間に必然に抱く警戒心のせいだと考えれば、あってないようなものだ。  だからこそ、トモノリと過ごした一部始終を、穏やかで落ち着いた気持ちで振り返られている今がある。  内容は総じて取り留めがなく、他愛ない。それでいて、一つ一つが輝かしい。思い出し笑いをしてしまうこともある。時間は飛ぶように過ぎていく。 『なにか困ったことができたなら、気軽にここまでおいで』  記憶しているいくつかのセリフの中でも、別れぎわに投げかけられたその一言は特に印象深い。 「……なにか困ったことができたなら、か」  そうであってほしくはないが、広い意味での「困ったこと」は、きっと明日も百合梨のもとにやってくる。  しかし、たとえ何事もなかったとしても、トモノリに会いたい。それが今の百合梨の率直な気持ちだ。
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