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まだ誰も帰宅していない夕暮れ。外からは男子学生の笑い声と信号待ちのバイクのエンジン音が聞こえていた。
考えても思い出しても、仮に探偵に頼んであなたが見つかったとしても、私は会いたいわけでも話したいことがあるわけでもない。なのに時々、それはまるで生理周期のようにあなたのことを強烈に思いだす日がある。
あなたはもうこの世にいないのだろうか? それとも
『芹ちゃん、勝手に私をいないことにしないでよ』と甘ったるい声を出して胸をわざと押し付けるように抱きついてくる日が未来にあるだろうか?
あなたは早くに結婚して、夜の店で働きながら、5歳の息子さんを育てる母親でもあった。
「これ食べて」
家庭の匂いなど一切しないあなたが時々、グラタンとか大学芋を作ってはタッパに入れて私に差し出した。あの頃、料理が全くできなかった私は
「おいしいよ、マキちゃん」
そう言いながら、箸をとめることなく頬張るとあなたは『また作ってあげる』ニヒッと顔を近づけて笑ったね。そのニヒッと笑う仕草さえ妖艶で女の私でも心臓がドクッとした。
水割りやウォッカを果てしなく飲む私とビールを何本でも飲めるマキちゃんは、近所の寿司屋でも有名で大将に
「君たち、何か間違ってるよ」
といつも笑われた。
「私達ふたりを誘うなら、5万は用意してよね」
煽るように強気にいったって、誘う人はあとをたたなかった。
どんなに仕事で飲んでも家の冷蔵庫の中は空っぽの私と朝起きてからずっとビールを飲み続けるマキちゃん。
「もう、マキちゃん、3000円の支払いぐらいちゃんとしてよ。まさかの延滞リストに名前があるから笑ったわよ」
コールセンターで働く理絵に言われても、
「めんどくさいもん」
彼女はひたすら笑っていた。
そんなあなたの指が震えだしたのはいつからだろう?
「ねぇ、芹ちゃん、朝から飲むことある? 」
「いや、私は家では全く飲まんよ。冷蔵庫にはお酒類は一切ない」
「私ね、朝起きて冷蔵庫にビールがないと息子をさ、保育園に預けた後、真っ先に買いに行くんよね。これってまずいよね? 」
「もしかして、台所で朝からずっと飲んでる? 」
「うん、ずっと。どちらかというとここで働いてるのも飲めるのとビール代のため」
「ねぇ、それってアル中だよ」
「そうだよね、アル中、アル中、また中毒がひとつ増えた」
グラスを洗う私の隣でタバコを吸うあなたから涙が溢れていたのを私はわざと気づかないふりをした。
あ~もう息子さんは結婚してる頃かな? あなたはもしかしたらおばあちゃんになってるかもしれないね。
そんなことを思いながら冷蔵庫を開けたら、主人が冷やしてる紙パックの日本酒に、アサヒスーパードライの缶ビールがずらっと。でも、私が台所で飲むのはアイスコーヒー。お酒がなくても生きていけるけど、アイスコーヒーがないのは駄目だ。
もはやなんの返事だよと今更ながらの年賀状の返事の手紙をポストに投函しようと外に出たら、帰るのを忘れたみたいに紋白蝶が私の肩にとまった。
ほんの一瞬だけあなたのファンデーションの匂いがした。
ヒラヒラ、まるで自由気儘に飛んだあなたの残り香みたいに、それは私の鼻からまた私の心臓に届いた。
春の夕、紋白蝶はどこへ帰ったのだろう。
私はポストにそっと手紙を入れた。
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