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第一章【起きた】波浪
◆
この海沿いの町では、あるはずのない島が時々見える。
その島はネノシマと呼ばれており、そこには妖怪や神様たちが多く住んでいるとされている。
ネノシマは、この土地で生まれ育った者にしか見えず、さらには大人になるにつれて見えなくなるといわれている。
しかし私は物心ついてからずっと、今もはっきりとネノシマが見えている。
そして今は、その他にも不思議なものを見る機会が増えた。
きっかけの一つになったのは半年前、中学三年生の初詣だった。我が家の近所にある西弥生神社は、普段は閑散とした神社である。長い石段を登った先に拝殿があるので、気軽にいけないというのも大きな要因になっていると思う。しかし初詣になると、近所の者は列をなして参拝に訪れる。それは我が家も同様で、私は家族とその列に並んでいた。その際に拝殿の屋根に鎮座する、建辰坊をみた。
建辰坊の姿は、明らかに異質だった。人間の姿ではあったが、顔は和紙で覆われており、首に結袈裟をかけた山伏のような格好だった。そしてぼさぼさの黒髪の上に紫色の頭巾を乗せていた。その姿は天狗を連想させるそれだった。
数日後、私はもう一度神社にいった。天狗のようなそれに会いにいくために、神社にいったのだった。それから私と建辰坊は、仲良くなった。
私は建辰坊と出会う前から、不思議なものを目にすることがあった。しかし建辰坊と出会ってからは、よりはっきりとそういうものを見るようになったと感じている。
私のような者を見鬼というらしい。私は自分が見鬼であることを誰にもいわなかった。誰にいわずとも不便はなかったし、そんなことで周囲に心配されたりするのは不本意だった。それは建辰坊の存在についても、同じことであった。
そして約二ヶ月前の高校一年生の六月初旬。
朔馬が我が家にやってきた。
私の双子の弟である凪砂のクラスに、朔馬が転校してきたのは五月初旬であった。私と凪砂は同じ白桜高校に通っているが、私は女子部で凪砂は進学部という違いがある。進学部と女子部は校舎も校門も違うので、同じ高校に通っているという感覚はあまりない。
そのため私は五月という妙な時期に、凪砂のクラスに転校生がやってきたことをすっかり忘れていた。
しかし六月初旬。様々な事情が重なり、朔馬は我が家に居候することになった。
朔馬はネノシマから逃げてしまった鵺を討伐するために、日本にやってきたという事実を知ったのはそれからほどなくのことだった。
朔馬はネノシマの統治機構である雲宿にという組織に属しており、妖将官という職に就いている。それは妖怪を相手にする官吏であり、日本でいう公務員のようなものらしい。さらに朔馬は妖将官の中でも桂馬という役職に就いており、それはとても責任のある立場のようだった。
実際に朔馬は妖怪関連のことになると、とても頼りになる。朔馬は私たちが想像もできない努力を重ねて今の職に就いていることは、いわれずとも肌で感じられる。
それでも我が家で過ごす朔馬は、私たちと変わらぬただの高校一年生でしかないこともまた事実だった。
七月末の現在、朔馬が我が家に住むようになって二ヶ月になろうとしている。
この二ヶ月で、色んなことがあった。私自身もネノシマにいったし、日本にいる妖怪とも出会う機会が増えた。それでも私の生活は、劇的に変わったわけではない。
朔馬が我が家に住んでいること、そして頻繁に妙なことに巻き込まれること、それらが私の日常になったとういうだけである。
◆
ドライヤーの熱風を当て続けられているような、そんな逃れようのない暑さが続く夏の日だった。
私はその日も西弥生神社にいき、建辰坊に呪術を教えてもらっていた。
――お前に、簡単な呪術を教えてみたい
建辰坊が私にそういってくれたのは、出会ってほどなくのことだった。
この辺に鵺が現れるということで、妖怪たちが騒がしくなり始めた頃だったせいだろう。とにかくそれ以降、建辰坊は気が向いた時に呪術を教えてくれるようになった。
教えてもらった呪術は、今のところ例外なく発動する。呪術を習ってしばらくは、それらを発動させるとひどく疲れたものである。
「呪術は、やり方さえ知っていれば誰にでも扱える。だから疲れるというのは、気のせいだと思うぞ」
最近は呪術を発動しても疲れないといった私に、建辰坊はいった。
「気のせいなのかな」
「気のせいだろ」
不満げにそういった私に、建辰坊はきっぱりといった。
呪術は誰でも扱えるからこそ、その継承は口伝でしか行なわれないらしい。そもそも呪陣かくと発動するものが多いので。口承が一番安全なのだろう。
呪術を習ううちに、呪術とはそれほど便利なものではないと理解するに至っていた。これから先も呪術を教えてもらっても、私の生活が豊かになるとか、ちょっと便利になるとか、そういうことはないように思う。
それでも私は、建辰坊に呪術を教えてもらっている。
知らないことを知ることは単純に楽しかった。そしてなにより、建辰坊が私になにかを教えてくれるというその気持ちがうれしかった。
私が建辰坊に呪術を教わっていると、学校帰りと思われる制服姿の朔馬が石段を上ってきた。
進学部は夏休み中も補講という名の午前授業があるので、凪砂も朔馬もほぼ毎日学校にいっている。私の通う女子部については、文句なしに夏休みである。
「おかえり」
私がいうと建辰坊も「おかえり」と、朔馬に声をかけた。
「ただいま。今日も、呪術の講義?」
朔馬がいうと、建辰坊は先ほど私に教えてくれていた呪術を朔馬にも説明した。
「気軽に聞いちゃったけど、俺にも教えていい呪術だった?」
「俺は教えたい者にしか教えない。問題ない」
建辰坊はきっぱりといった。
建辰坊は朔馬がネノシマから来たことも、高度な妖術を扱えることも知っている。そのせいなのか、朔馬の人間性なのか、建辰坊は朔馬をとても信頼しているように感じられている。
「今日は凪砂と一緒じゃなかったの?」
二人は毎日、当然のように登下校をともにしている。
「凪砂は今日、掃除当番なんだ。ちょっとネノシマに顔を出したかったから、先に帰ってきた」
「今からネノシマにいくの?」
「うん、執務室にいってくる。書簡の確認」
「忙しいことだ。子どもはもっと遊ぶべきだ」
建辰坊は嘆くようにいった。
「俺が自分の執務室にいくのは、趣味みたいなものだから仕事とも思ってないよ」
朔馬はそういって建辰坊に微笑んだ。
「それに瑠璃丸に変化があったら、結高が連絡をくれるはずなんだ。もしなにかあれば、建辰坊にも連携するよ」
建辰坊は「うむ」と返事をした。
「書簡の確認にいくだけ?」
私は聞いた。
「そうだよ、それだけ。一緒にいく?」
私は「うん、いく」と即答した。
◆
ネノシマへいく方法は、何度経験しても非現実的である。
朔馬が虚空に桂馬の陣を書くと、そこには真っ白な空間が現れる。朔馬に手を引かれてその白い空間に足を踏み入れると、数歩も歩かぬうちにネノシマに到着する。
桂馬の陣というのは、朔馬の役職特権である。ネノシマの役職者は、役職に応じて移動特権の陣を与えられる。現在桂馬の陣については日本の西弥生神社と、ネノシマの辰巳の滝に配置している。そのため朔馬はどこにいても、その二箇所については一瞬で移動可能である。
ザァザァという涼しげな水の音が、私の鼓膜を揺らしている。
先ほどまで西弥生神社にいた私たちは、すでにネノシマの辰巳の滝に到着していた。
辰巳の滝には気性の荒い水神がいるらしいが、まだ一度も出会ったことがない。その姿を見てみたい気もするが、見てしまったら後悔したりするのだろうか。
私はそんなことを考えながら、辰巳の滝を見つめた。
「ここに来る度に滝を見てるけど、なにか気になることでもあるの?」
朔馬は不思議そうにいった。
「気性の荒い水神って、どんな感じなんだろうと思って。朔馬は、見たことある?」
「ないよ。たぶん姿を現した時点で手に負えない状態になってると思うから、見ないままの方がいいのかも知れない」
「手に負えない状態……」
私は朔馬の言葉を反芻した。
「庁舎にいくから、蔵面をつけておこう」
朔馬はそういって、私と自分に蔵面をつけた。
朔馬現在、鵺討伐のために日本常駐ということになっているので、朔馬がネノシマに帰ってきていることはあまり知られない方がいいためである。私に関しては、単純に不法入国なので顔を隠してくれているのだろう。
「そういえば銀幽がくれた式神に見える羽織りがあれば、雲宿の駕籠を呼べるかもしれない」
銀幽とは、雲宿の銀将のことである。
私たちは先日、銀幽さんに頼まれごとをした際に、その羽織りをもらったのだった。その羽織りは特殊な妖植物でできており、小さくたたむとハンカチほどの大きさになるので私はいつも持ち歩いている。
私は「持ってるよ」と、それを出した。朔馬も「よかった。俺も持ってる」と、それを出した。
「駕籠って、移動に特化した妖怪のことだっけ?」
「そうだよ。そして雲宿の駕籠っていうのは、雲宿庁舎の半径五キロ以内なら関係者を迎えに来てくれるんだ。でもそれを使うと記録が残るから、今まで使ってなかった。でも式神と認識されるなら、使って問題ないと思う」
式神とは一体なんなのか、私は今も詳しくはわからない。とりあえず人間が使役している何かであるとは思っている。
「朔馬が問題ないと思うなら、問題ないと思う」
私は至極適当なことをいった。
「そうだね。見つかったら、その時考えようか」
朔馬も適当にいった。
そして朔馬は、右手の人差し指と中指を立てて短く何かを詠唱した。
ほどなく、私たちの頭上には大きな鯉のぼりのような生き物がゆらりと現れた。
ネノシマは文明的には明治時代くらいであると聞いているが、今の日本よりも豊かな部分はたくさん存在しているように思う。
◆
「え、ネノシマいってたの? いいなぁ」
凪砂はそうめんをすすりながらいった。
最近のお昼は一日置きにそうめんである。
「なにか重要な連絡はあった?」
「うん。瑠璃丸が目覚めたって、結高から連絡が来てた」
「え! 瑠璃丸、起きたんだ? よかったね」
凪砂はうれしそうにいったので、私も朔馬も「そうだね」と同意した。
「なんか二人とも、反応よくないね。なにかあったの?」
凪砂はそういって、私と朔馬の顔を交互にみた。
「瑠璃丸が起きたことはうれしいし、よかったなって思うんだけど。ちょっと問題というか、面倒なことになってた」
それは私たちが瑠璃丸という呪いを背負った雉を助けたことに遡る。
瑠璃丸は岩宿から雲宿へと、呪いを運ぶはずの雉だった。岩宿は何百年も前から雲宿と敵対している組織で、瑠璃丸が放たれたのも何百年も前の話である。
雲宿へと放たれた瑠璃丸は、当時の雲宿の強力な結界によって、呪いを背負ったまま日本まで弾かれたのだった。
瑠璃丸に呪いを託したのは、巣守という一族だった。
そして先日、その子孫である巣守結高から朔馬に連絡があった。結高は生まれたばかりの息子の命を守るためにも、瑠璃丸に背負わせた呪いを解きたいのだと朔馬に頭を下げた。そのため私たちは結高と協力をして、瑠璃丸の呪いを解くことにしたのだった。
そして瑠璃丸の呪いは解かれ、結高の元へと帰っていった。
朔馬と結高は敵対する組織に属しているので、瑠璃丸の件は互いに口外しないようにしようとなっていた。
しかし、そうもいかない事態が発生したのだった。
「結高の見舞いにきた岩宿の人間が、瑠璃丸が帰ってきてることに気付いたって連絡だったんだ」
結高は瑠璃丸の呪いを解く際に、重傷を負ったので今も療養中である。そのため、お見舞いにくる人間がいても不思議ではなかった。
結高の連絡には、岩宿の同期に瑠璃丸を目撃されたと記されていた。
その同期は「あの雉は、呪いを背負った巣守の雉。瑠璃丸ではないのか?」と、結高に問うた。
結高はその同期を深く信頼していた。その有能さを信頼していた。だからこそ適当なごまかしは通用しないと思った。結高は「そうかも知れない」とだけ答えた。
「お前が上に黙っている理由は聞かないが、瑠璃丸の帰還を知ってしまった以上、報告しなければならない」
同期は短くいった。同期と瑠璃丸について話したのは、それだけだった。
しかし瑠璃丸の帰還は近いうちに、岩宿内で周知になる。その未来は結高には容易に想像ができた。
そのため結高は朔馬にそれを知らせてくれたのである。
追記として、目覚めた瑠璃丸に会いにきてくれるなら歓迎するとも書いてあった。属する組織が違えど、朔馬と結高の関係は瑠璃丸の件以降とても良好であるといえた。
「岩宿の人に瑠璃丸が帰ってきたことが知られると、どうしてまずいんだっけ? 結界が弱まってることは、鵺が逃げたことでバレてるんだろ」
凪砂はいった。
「まずいというか、雲宿の弱体化が決定的なものであると岩宿は確信するって感じかな。だから結高はわざわざ連絡をくれたんだと思う」
「そういうことか。朔馬はこのことは誰に報告するの?」
凪砂がいうと、朔馬は「うーん」と視線を上に向けた。
「報告するかどうか、ちょっと迷ってる。俺自身は雲宿の弱体化が決定的になったのは、鵺が日本に逃げた時だと思ってるんだ。だから、あえて報告しなくてもいいかなとも思ってるんだよね。結高とのことを尋問されても面倒だし」
「え、でも」
私はそういって、すぐに閉口した。
「うん?」
朔馬と凪砂はこちらを見た。
私は幼い頃に、凪砂と毅の会話に野暮な口出しをして、何度「うっせぇよ」と毅に吐き捨てられたかわからない。そのせいなのか、私は三人以上で話す時は極端に無口になると指摘されたことがある。そう指摘したのは、他でもない毅であった。
毅の家と我が家は徒歩五分程度の距離なので、生まれた時から一緒にいるといっても過言ではない。私は幼い頃に毅に強く当たられていた記憶があるが、毅は私以上にそれを覚えているようである。その罪悪感からなのか、毅は今ではそれなりに私にやさしい。
しかしそれとは無関係に、毅にいわれた心無い言葉を思い出して眠れない夜もある。幼い私はしっかりと傷ついており、その傷は今も癒えていないらしい。
「え、なにかあるならいって欲しい」
私が閉口したことに戸惑ったのか、朔馬は不安げにいった。
「鵺が逃げたことと、瑠璃丸が岩宿に帰ってきたことを知られるのとでは、深刻度が違うんじゃない? ネノシマの内情はよく知らないけど、瑠璃丸は何百年もネノシマに帰れなかったんでしょ」
朔馬は「それもそうか」と、あっさり肯定した。
朔馬は雲宿の役職者であるが、組織への忠誠心はあまりない。本人から聞いたわけではないが、朔馬は雲宿にあまり印象を持っていないように感じられる。
「瑠璃丸が帰ってきたことと、それが岩宿に知られることは簡単にでも報告しようかな」
「結高もそのつもりで連絡をくれたんだろうし、それがいいかもね」
凪砂はいった。
「でもその報告をする場合、結高と接触したことは隠せないだろうなぁ。どうしようかな」
「瑠璃丸の呪いの対象だった雲宿の人も、結果的に助けたんだろ。それを理由にすればいいんじゃない? なんて人だっけ、たしか香車の人」
「若矢香明」
瑠璃丸の背負った呪いは、雲宿にいる若矢という一族に向けられた呪いであった。そのため雲宿では瑠璃丸のことを、若矢の雉と呼んでいるらしい。
「そうそう、その人を助けるために結高に協力したってことにすればいいんじゃない」
「そうしようかな。でも報告書を作るの面倒だなぁ。口頭なら、いい逃げ出来るんだけど」
朔馬は心底面倒くさそうにいった。
言い逃げとはどんな状態なのかわからなかったが、瑠璃丸の件を報告書に起こすのは面倒だろうとは想像に難くなかった。
「それなら、あの人に頼んでみたら? 銀幽だっけ。銀将の人」
「ああ、銀幽なら伝言役にするには、申し分ないけど。引き受けてくれるかな」
「この前、朔馬とハロは遊郭の事件を解決しただろ。誰かに報告するくらいなら、引き受けてくれるんじゃないかな。朔馬にやさしかったし」
ハロというのは、私のあだ名である。私を波浪と呼ぶ者は、この世にほとんど存在しない。
「遊郭の件か。たしかに、そんなこともあったな」
「朔馬とハロでお願いにいったら、銀幽も断れないと思うよ」
凪砂は悪意のない笑顔でいった。
双子であるが、こういう時は甘え上手な末っ子だなと思う。
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