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現在・成田空港・ロビー
「おや」
と先に、シルクハットの男のほうが声を上げた。驚きと喜びと、やはり驚きが混じっているような表情である。眉は大きく持ち上がり、「どうしてお前がここにいるんだ」とでも言いたげな表情だった。
そう言いたいのは私のほうだ――と、言いたくなるのを我慢して、その場しのぎで驚いたような表情を作ってみる。実を明かせば、シルクハットの男が私の存在に気付くよりもずっと前から、私はその男の存在について気付いていた。
気付いていながら、黙っていたのだ。
その男と、何か話が始まらないように。
けれど、こうなってしまっては仕方がない。あれだけのことがあったというのに、まさか忘れてしまいました、で通るはずがないだろう。私が凡百と同じような顔をしていれば、人違いですよ、と言って難を逃れることも可能だっただろうが、右頬から鼻を通って左頬へと続く傷跡があっては、その手も彼には通用しない。
彼――シルクハットの男。
犯罪者のこの男に、そんな小手先は通用しない。
いいや、まだ犯罪が確定しているというわけではないのだから、厳密にはまだ容疑者としか呼べないのだけれど――しかしながら、知っている。
奴こそが犯人なのだ、と。
私は少しだけ姿勢を正して、探偵らしく衣服を整えた。諦めるように、手元の懐中時計をぱたん、と閉じて、そのうえで再度、彼と真正面から向き合う。彼は調子が良さそうに、笑顔を浮かべながら右手を差し出してきた。
「お久しぶりです、ムッシュ。アラバスタ急行以来ですね。……あっしのことを覚えていらっしゃいますか」
「当然ですとも」
私はすぐに自然な笑顔を浮かべて、その右手を手に取った。男はしつこく、何度かつながった手を振ったのちに、ようやく私を開放してくれる。
「いやあ、それにしても奇遇ですね。こんなところで再会するだなんて」
私は周囲を見渡すようなそぶりをしながら言う。ここは空港で、待ち合わせのロビーの中央だった。もうすぐエジプトに向かう便が到着する。まさか彼が同じ便ではないといいのだけれど。
「ええ、本当に」男はにっこりと微笑んだ。「冗談みたいな再会ですね。まさか、探偵さんともう一度会えるだなんて」
そして、男は私をからかうように、私を中心に歩き始める。
「八年前のことだったでしょうか……。いやあ、アラバスタ急行での事件は――いいえ、珍事は、私にとっても結構、思い出深い出来事だったりするんですよ。まさか、あの急行に同乗していた令嬢の指輪が、すっかり盗まれてしまうなんて。その犯人として、あっしが名指しされてしまうなんて。ねえ探偵さん。人生というものは本当に何が起こるか分からない。そう思いませんか?」
人生というものは、何が起こるか分からない――か。
確かに、そうだと思う。
指輪の盗難事件。あれは、私にとっても、思い出深い出来事だった。つまるところ、初めてだったのである――私が現場に同行しておきながら、私が解決できなかった事件は。未解決に終わってしまった事件は、あれが初めてだったのだ。
最初の、屈辱だった。
探偵の名を汚されてしまったのである。以降、何か事件と出会うたびに、あの出来事が脳裏をよぎった。夢にも出てきた。この男がしたり顔で、このへっぽこ野郎、と罵ってくる夢だ。私は酷いスランプに陥った。
本当に、人生なんてものは、何が起こるか分からない。
こんなところで再開するだなんて。
そのとき、ポーン、と軽やかな音色がロビーに鳴り響いた。その場にいた全員が、音の発信源のほうを向く。スピーカーから、女性の声が鳴った。
「成田空港、カイロ行き、311便をご利用のお客様にご案内申し上げます。ただいまより搭乗を開始いたします。ご搭乗のお客様は、三番ゲートまでお集まりください」
「おや……もうこんな時間かね」
男はそう言って、腕時計をちらりと見ると、そのまま、なんの手荷物もないままに――まるで、行き先で盗みでもすれば事足りるとでも言うかのように――身軽に、三番ゲートへと歩を進めた。
私が表情を歪めたのは、言うまでもない。
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