西風の残影

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 テレビのニュースやワイドショーでは、著名な俳優である中浦丈の失踪が報じられている。友人だという、こちらも有名な脚本家がコメントを発し、彼がオフを利用して旅行に出る数日前に、食事を共にしたのだと話していた。 「いつもと変わりませんでしたよ。酒もよく飲んでいたし、食欲も旺盛だった。ただ、信じてもらえないかもしれませんが、少し、ほんの少しだけ予感がしたんです。別れ際に、あいつはこのまま帰ってこないんじゃないかって…。」  先代から引き継いだという事務所の社長もインタビューに答えていた。 「彼が向かったはずの北陸の小さな街は、昔バンドが解散してすぐの頃に旅の途中で立ち寄った場所だと彼からは聞いていました。そこで当時何があったのかは一度も聞いたことはありません。ただ先代…私の父ですが、留守電に吹き込んだメッセージを彼が聞いて、すぐに東京に戻って来た。ドラマの出演の話があるって父は嘘をついたんですね。そうでもして呼び戻さないと、あの頃のあいつは道を逸れて、どんな人生を歩むか分からなかったから…そう聞かされました。父の判断は正しかったと思いますね…。」                 ※※※  彼の中で、当時の思い出がどのような美しい物語に変換されていたのかは、私には分からない。だが、少なくとも私にとってはそうでは無かった。  当時私には、別に交際している人がいた。アルバイト先の店にやって来た中浦丈は都会の空気を纏ってはいたものの、その裏にぎらついた欲望を屈折させ、それを何かにぶつけてやろうという暴力的なオーラが感じ取れた。女将さんが彼のために予約した民宿まで私が案内することになったが、私は笑顔の下で恐怖に震えていたのを覚えている。きっと彼は私に対してよからぬことを考えている。二軒目の居酒屋で彼は私を強引に口説いてきた。私は酒好きの彼に地元の強い酒をすすめ、泥酔した隙に逃げようと考えた。だが、その日の彼は酔えば酔うほど神経が研ぎ澄まされるようで、店の外に出た私を追いかけて捕らえ、深夜の空き地に私を引きずり込んで行為に及んだ。そして乱れた着衣のまま横たわる私の姿を写真に収め、他言すれば知り合いのいる東京の雑誌社に持ち込むと私を脅した。    それから一週間のあいだ、彼は写真の存在を盾に私のアパートを毎晩のように訪れ、東京の事務所からの連絡で街を出ていくまで、私に対して好きなことをした。  もちろん、置手紙など、彼が私に残したことは無い。  小さな街の出来事なれば、そのような噂は何故かすぐに広まる。結婚も考えていた交際相手との関係には終止符が打たれ、私は街を去らなければならなかった。そしてそれからは数々の出会いと別れを繰り返し、今では生まれ故郷の若狭にほど近い場所で、一人静かに暮らしている。    これが彼にとっての美しい記憶の、本当の物語だ。  記憶は時間とともに差し替えられる。そういうものなのだろう。だが当時の彼には私に酷いことをしたという自覚があったはずだ。そうでなければ、我に返った彼が事務所からの電話一本で東京へ逃げ帰るとは思えなかった。  彼は今、私のアパートにいる。そこは実在する世界からすると、存在しない場所だ。私はそこに彼を閉じ込め、もう長い時間がたつ。  もし彼が、あの時のことを本当に美しい記憶として残しており、純粋に私に会いたいと望んでいただけであれば、私は彼の前に姿を現すことも無く、無傷のまま東京に返していただろう。  くだらないエンターテイメントのために私を利用しようとしたから、このような目に遭うのだ。  そういう私も、近頃、自分の状態がよくわからなくなる。実在する世界とそうではない世界を自在に行き来するようになってから、私は果たしてどちらの住人なのだろうと思うことがある。もしかすると私の記憶も、どこかで差し替えらえているのかも知れない。  私の確かな記憶は、岬を見たいという彼に連れられて、そこへ向かったところで途切れている。岬へ行った私は、どうやって街まで戻ったのだろう。一人で、それとも彼と一緒に?  その辺りの記憶が消え去っている。  そして私は、たまたま迷い込んできた彼をこちらの世界へ誘い込み、消失させた。そう考えると、私自身も実は、遠い過去の時点で消失しているのではないかと、そんな気がする。  東京へ帰ると言った彼は、この一週間のことを、重ねて私に口止めしたのかも知れない。  私はそんな彼の弱みを握ったと、そう考えたのかも知れない。  岬へ向かうバスに、乗客は彼と私しか乗っていなかった。運転手が私たちのことを、何度も振り返っていたのを覚えている。  やがてバスは終点に到着する。そこではやはり、海からの西風が吹いていた。そして、血の色をした夕陽が水平線に向かって落下していくのを、岬の突端から私は確かにこの目に焼き付けたはずだった。
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