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ノンストップ・ササクレ
ささくれを剥くのに、失敗した。
久しぶりの感触だ。ぺろりと、だらしないささくれが、中指の前方でくたびれている。仕事終わりの気力がひとつもない状態で、バラエティ番組を垂れ流しながら、全裸でソファに倒れ込みながら、しかもあくびをしながらだったもんだから、当然の結果ではある。たまに訪れるこのイベント。やれやれ、と息を吐きながら、ささくれを見つめる。
このまま、剥き続けてみようか----
ふと、そんなことを思った。テーブルの上で冷め切っている昨日のカップラーメンの残りが、目に入ったせいだろう。三十を過ぎて、まだこんなにもくだらない生活を送っている自分に嫌気がさした。馬鹿みたいな考えだと、別に分かってはいた。でも、剥いてやりたかった。仕事へのモチベーションにもプライべートの充実にも昇華できない、このやるせなさを、どこかにぶつけたかった。
「うらっ」
勢いに任せて、僕はささくれを剥いた。
すると、ささくれは、元からレールが敷かれていたかのように、綺麗な線を描いて、手首のあたりまでつるりと剥けた。痛い、と視覚情報から瞬時に思いそうになったけど、痛くもなかった。感触は、簡単に指で割くことのできるチーズとよく似ていた。怖かった。でもそれ以上に、興味が湧いた。全く痛みがないことが、興味をより後押しした。
僕は手首のあたりで揺れるささくれをつまみ、続きを剥いていった。ぺろりぺろりと、気持ちいいくらいに剥けていく。あっという間に、ささくれは肘の辺りにまで届いた。
するとそこで、ささくれがぐるりと回り始めた。肘を巻いていくように、ささくれが回る。コマの針に巻きつけた紐がほどけていくように、凧を空へ飛ばす時の手元の紐の動きのように、肘がなくなっていく。
「おっ、おっ、おっ」
僕の情けない声と共に、ささくれが、肘を丸ごと剥いた。
今、僕の目には、赤い肉が見えていた。肘の皮が剥けて、中に隠れていたはずの肉が丸見えになっていた。こんなにも強烈な光景なのに、僕はまだ、痛みを感じていなかった。
そして、また続きを剥いた。
異常な状態だと理解はしていた。でも、僕にはもう、剥き続ける以外の選択肢は存在していなかった。痛みが来ない限り、止まれない。今日までの弱々しい日々たちが、燃料となり、僕の手を加速させ続ける。興味の熱に、冷める隙を与えない。
ぺろり、ぺろり、ぺろり。
非常に滑らかで、それでいて残酷な光景。赤が広がっていく。
ついには、腕が完全に剥けた。そして左手も剥けた。これで、僕の左腕という部分が完全に剥けたことになる。赤々しくて、痛々しい、左腕を眺める。
その瞬間だった。頭の中に、何かの記憶が流れ込んできた。
「今日は、一段と寒いね。絋くん」
隣を歩いている、彼女の朱莉。
「冷えるな、って、おい」
「だって寒いんだもん」
朱莉は、僕の左腕に抱きついている。
「まあ、こうしてた方があったかい、か」
内心照れながらも、必死に冷静な顔を保つ。この動揺が肌越しに伝わっていないかと心配しながら歩いた、いつかの夜だった。
「なんだよ、今の」
記憶を思い出すときの感覚とは、まるで違っていた。なんだか、無理やりその景色を見せつけられたようだった。僕は、唯一の彼女だった朱莉のことを思い出させられて、息苦しかった。現状と比較して、余計に悲しくなる。
そんな不満をぶつけるように、また、ささくれを剥いていく。
するとささくれは、レールの上を進むように、胴体へと向かっていった。そうして、フラフープの要領で、大きな円を描き、ささくれは胴体を回り始めた。ささくれが先頭を走り、体を駆け抜けていく。ガムテープがはがれていくように、肌が剥かれていく。ささくれは、止まることもないし、途中でちぎれる気配もなかった。もう、このまま剥けていくんだろうな、と、自分でも冷静に悟った。
そしてついに、上半身が丸ごと剥けてしまった。目が痛くなるほどの赤が、べたりと光っている。やっぱり痛みはない。
その瞬間、また、あの感覚が襲ってきた。膜のような記憶が、頭の中を覆っていく。記憶が色を付けていく。
「ペコ。ペコ」
仰向けになった僕のお腹の上で眠っている、愛猫のペコ。
「かわいいなあ。ペコは」
気持ちよさそうに、目を閉じているペコの頭を撫でる。
「ンニャ、」
声を漏らすペコに癒され、お腹の重みを確実に感じながら、同じように眠りについた、穏やかな日曜日のお昼だった。
「さっきから、なんなんだよ」
何気ない幸せの記憶を、なんで今、見なくちゃいけないんだ。振り返りたくないんだ。彼女も愛猫も、今はもうない。ないものを追うなんて、一番惨めで、みっともないんだから。
落ち着かせるように、僕は、ささくれの続きを剥く。
次に向かう先は、下半身だった。もう恐怖なんてものは消え去ってしまっていたので、剥く速度を上げた。するすると肌がなくなっていき、赤い本体に変わる。男たちの何よりの弱点である、局部はさすがに痛むんじゃないかと思ったが、これでも痛みはなかった。局部と言う山場を乗り越え、無事に足先まで辿り着き、ささくれは下半身を剥き切った。赤男と化した自身の体を見つめる。気絶してもおかしくないほどの圧がある。なんだかもう、色々と分からなくなってきていた。意識も朦朧としてきた気がするし、麻痺しているような感覚もある。
そんな体を眺めていると、また、記憶が流れ込んできた。
「九十七、八」
サッカー部の連中に囲まれ、僕はリフティングをしている。
「おい、本当に百回いくのかよ」
迫る記録と、湧き上がる仲間たち。
「九十九、」
足全体の気力が切れかけそうだ。でも、もうひと踏ん張りする。
「百!」
見事に成功し、僕はサッカーボールを天高く蹴り上げる。
歓声に囲まれ、優越感で溺れそうな、日差しの強い夏の日だった。
「あの時は、気持ち良かったなあ」
弱小だったサッカー部だったからこそ、僕は目立つことができた。あとにもさきにも、あんな独壇場は無かった。
意識が朦朧としてきた僕はもう、この記憶たちに対する怒りもなくなっていた。むしろ、二度と味わえないであろうこの記憶たちを、早く摂取したいとさえ思っていた。
恐ろしいほど自然に、僕はささくれを引いていく。地球の引力に任せきっているような、だらりとした剥き方で、今度は顔が無くなっていく。
唇を剥き、鼻を剥き、瞼を剥く。おでこ、そして、そのまま頭皮が剥かれていく。その剥かれていく頭皮は、大量の髪の毛さえも見事に巻き込んでいった。
そうして、赤くてまあるい顔が完成した。鏡はないけれど、視界のあちこちから赤の反射が飛びこんでくる。ぼやけた赤い鼻が、確実に見える。
そして脳が揺れ、待ちに待った感覚が襲ってくる。
「お前の芸能人の顔真似をよ、SNSにあげたんだ。そしたらよ」
友人のスマホの画面に写るその投稿には、大量のイイねがついていた。
「すげえよ。お前、ちょっとした有名人だぞ」
「勝手に使いやがって。全くよ」
不満を垂らしながら、興奮が溢れて飛び出しそうだった。
懸命に我慢をしながら、送られてきていたコメントを欠かさずにチェックし続けた、放課後の教室だった。
「世界一面白いです、天才現る、うちの学校にも一人ほしい。はは」
印象的だったコメントたちを並べながら、僕は意識の際に立っていた。今はもう、流れてくる記憶たちを味わうことくらいしかできない。心臓の音が遠くなり、視界にも、もやがかかってきた。
それでも、僕はごくわずかな意識で、残された右腕を剥くために、ささくれをつまんだ。そして、思い切り引いた。
ぐるぐるぐる、勢いよく右腕が赤に染まっていく。手首を越えて、右手の指が順番に剥けていく。いち、に、さん、し、ご。ささくれは、大きく羽ばたく鳥のように、最後の小指から、飛んでいった。
ついに剥き終わったそのささくれを、僕は、ぱっと離した。見下ろすと、そこには、麻縄のように放り出された、長い長いささくれが、いた。
そこまできて、僕はやっと「死ぬ」と感じた。
真っ赤な体。剥がれ落ちてしまった肌。朦朧とする意識。近い心臓の音。痛みのない麻痺した感覚。そして、未来を諦めていた自分。
「ああ、久しぶりだ。本当に久しぶりだ」
まだ、死にたくないと思った。
もう少し生きてみたい。本当に久しぶりに、そう思った。さっき流れ込んできた記憶のような経験をまた味わってから、死ねばいい。そんな前向きな自分がいつの間にか、現れていた。
でも、とっくに手遅れだった。
真っ赤に染まった、痛みさえも感じない体では、もうどうしようもない。
それに僕はもう、この記憶たちの正体も分かっていた。死ぬ前くらいは、楽しい気持ちにしてあげよう。そんな神様の優しさで作られた人間の機能を、僕は知っている。
走馬灯だ。きっと、剥かれて存在を消されていった体、それぞれの部位ごとの走馬灯が流れ込んできたのだろう。左腕、上半身、下半身、顔、右腕。
そう考えると、あの程度の走馬灯か、と思ってしまう。心の底から情けなくて、今すぐ消えたい、なんて思う。でも大丈夫だ。焦らなくても、もうすぐ僕は消える。
人間は、結局、脆い生き物だ。
ストレスで外へ出られなくなったり、好きな人が振り向いてくれないせいで自分を傷つけたり、まわりと自分を勝手に比べてしまい命を絶とうとする。ほんのちょっとしたことであっても、大きくて偉大な人間という存在の足元をすくわれ、崩れてしまう。
僕にとっては、それが、ささくれだっただけなのかもしれない。
いくつもの溜まりこんでいた、不安や焦燥、諦め、苛立ちに嫉妬。これらが僕の中でなみなみになり、その液体の中に、小さなささくれが落ちた。それで、溢れてしまった。
すると、意味の分からない笑みがこぼれた。
僕という人間の本能が、最後の最後のあがきで、体を動かしていく。赤い右腕と左腕が、床のささくれへと伸びる。無意識のうちに、僕はささくれの両端を、右左、それぞれの手で握っていた。ささくれを跨ぎ、後ろにやる。そして、その長いささくれを、大きく回した。空中を舞う。僕は真っ赤な両足に力をこめて、ささくれを跳んだ。
「いち、に、さん」
縄跳びのように、ささくれを跳ぶ。
赤い体が揺れ、硬い床を踏みつけ、跳び続ける。
どん、どん、という音を聞きながら、僕は、下の階の人に迷惑じゃないかなあ、なんて心配していた。最後の気力を振り絞って縄跳びをし始めたと思ったら、今度は住民の心配をし始めている。滑稽にも、ほどがある。
全く理解のできない今の自分のことを「僕って、意外と面白い奴だったんじゃん」と、思った。この人生で、はじめての、感情だった。
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