あの男

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あの男

 はじめて男を買ったのは、土砂降りの夜だった。こんな雨に路上に立っているくらいだから、容姿の方は期待できないだろう、などと思っていたのだけれど、傘の下から現れた男の子は、案外可愛らしい顔立ちをしていた。小さな顔の中に、大きな猫目が似合う。俺はちょっと驚いて、まず値段を確信してしまった。うっかり、月給が飛ぶような高級男娼を引いてしまったのかと思ったからだ。すると男の子はにっこり微笑んで、一本指を立てた。  「一時間。」  なんとなく、これくらいかな、と考えていた金額とつりあったので、俺はその場で男の子に一万円札を渡した。彼は微笑んだまま、金をジーンズのポケットに押し込んだ。  「お兄さん、名前は? なんて呼んだらいい?」  路地を一本入ったラブホ街にゆっくりと足を進めながら、彼は顔に似合わず少し掠れた声で訊いてきた。  「……中村。」  とっさに偽名なんか出なくて、本名を告げてしまった。男の子はビニール傘越しにこちらを振り向くと、俺は宮本、と名乗った。俺に合わせて適当な苗字をでっち上げてくれたのだろう。その優しさに背中を押されるみたいに、俺は彼を引き留めた。  「ちょっと、待ってくれるかな。」  宮本くんは、怪訝そうな顔をしてこちらを振り返ると、警察? と、小さく呟いた。俺は慌てて首を横に振った。  「違う。……場所なんだけど、ホテルじゃなくてもいいかな。……家、この近くなんだけど。」  「……家?」  宮本くんが軽く眉を寄せ、考えるようなそぶりを見せた。警戒させてしまっただろうか、と思う。初対面の男の家についていくなんて、いくら男同士とはいえ警戒するのが当たり前だろう。盗撮される可能性も高いし、もしかしたらもっとひどい目に合わされるかもしれない。  それでも俺には、今日家で誰かとセックスすることに意味があったので、必死だった。  「カメラがないか探してくれて構わないし、家のドアだって、鍵はかけないよ。怪しいと思ったら、すぐ逃げてくれて構わないし、お金だって、追加料金出すから。」  言ってから、必死すぎて逆に怪しまれてしまっただろうか、と不安になる。  宮本くんは少しの間黙っていた。その間、俺は強くなっていく雨音だけを聞いていた。  「……いいよ。」  ぽつん、と宮本くんが言う。  「盗撮でも監禁でも殺人でも、別にね、いいっちゃいいよ。」  「え?」  「いいよ。家で。」  「いいの?」  「うん。」  俺より十歳くらいは若いのであろう男の子は、すとんと感情が抜け落ちたような、黒い目をしていた。  俺は一瞬ぞっとしたけれど、それどころではなかった。とにかく今日、家で誰かとセックスできる。それだけで心の中がいっぱいいっぱいになった。  
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