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1話 優柔不断なはるおみ先輩
「春臣君。私と別れてほしいの」
交際相手である美緒にそう告げられたのは、俺――赤根春臣の29歳の誕生日。仕事後に合流して食事をし、美緒を見送るため駅のホームに立っているときのことであった。
電車の到着を告げるアナウンスが、人気のないホームに鳴り響いていた。
「美緒……ど、どうして?」
突如として伝えられた別れの言葉。うろたえる俺の右手から、まだ温かな缶コーヒーが滑り落ちる。カランコロコロン。アナウンスに混じって賑やかな落下音。
「だって春臣君、いつまで経ってもプロポーズをしてくれないんだもの」
「プロポーズ⁉ 美緒、俺と結婚したかったの……?」
おそるおそる尋ねる俺の頬を、突風が撫でた。電車がホームに到着したのだ。
美緒は寂しげに目を伏せたまま、風で舞い上がるワンピ―スのすそを押さえた。
「4年も付き合っていたらさ、結婚を意識するのが普通じゃない? 春臣君は、一度でも私との将来を真面目に考えたことがある?」
ある、などとは口が裂けても言えなかった。
俺と美緒は大学時代、同じサークルに所属していた。俺が先輩で、美緒が2つ下の後輩。在学時代はそれほど仲良しではなかったけれど、就職後に偶然街中で再会し、懐かしさから何度か一緒に食事をしたことがお付き合いのきっかけだ。
ストレスフルな社会人生活において、大学時代の気ままさを思い出させてくれる美緒の存在はありがたかった。
けれど俺にとって美緒は、過ぎ去った青春時代を思い出させてくれる存在。思えば美緒との未来を想像したことなど一度もなかった。
「ごめん……俺、これから真面目に考えるよ。だから別れるなんて言わないで……」
「ううん、もういいの。少し前に出会った人から『結婚を前提にお付き合いしてほしい』と言われているから。いつも前向きで、決断力のあるとても素敵な人。今日、春臣君にはお別れを言いにきたの」
美緒の言葉には有無を言わせぬ力強さがあった。同時に「春臣君は本当に決断力がないよね」と蔑まれているような気がした。
俺はそれ以上、美緒に何も言うことができなかった。電車に乗り込もうとする美緒に、すがるように手を伸ばすことで精いっぱい。
「美緒」
「さよなら、春臣君。4年間ありがとう」
どこかほっとしたような美緒の笑顔は、無機質なドアの向こう側に消えた。
間もなく発車ベルが鳴り響き、電車はガタンゴトンと走り出す。色褪せ始めた青春と、ともに過ごした4年間の思い出と、もうたどり着くことはない未来の幻影を乗せて。
俺は美緒の名を呼ぶこともできず、速度を上げる電車を追うこともできず、呆然とその場に膝をついた。地面に零れた生ぬるいコーヒーが、ズボンのすそにジワジワと染みていく。
「嘘ぉ……」
これが俺の29歳の誕生日。
これ以上最悪な誕生日を迎えることは、後にも先にもないだろう。
***
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