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母の言っていた通り、叔父は全く社務所を使っていなかった。
埃とカビだらけの家の中は冷えていて、風水は最悪。母が電気・水道・ガスを何とかしてくれていなかったら帰りたいくらいの極寒かつ極汚(こんな表現は存在しないだろうが)環境である。
まずキッチンでお湯を沸かそうとして困った。鍋もポットも古くて埃とカビだらけで使えそうにない。そういえば電気ケトルを持ってきたのだと気づいて、道に置いてきたリュックサックのことを思い出した。あそこには寝袋も入れてきたから、この家に腐ったような布団しかなくても一晩くらいはしのげそうだ。
「昌ちゃん。僕、置いてきた荷物を取ってくるから……」
雑巾をバケツの水で洗っていると、両手が凍りそう。ああ嫌だと思いながらも逃げ出せずに呻いていると、近くで掃除機の轟音がひびき始めた。
掃除機なんて……この家に使えるものがあったのだろうか。
「さぁーいれんなーい、ほーりーなーい」
わざと調子を外しているらしい、変に明るい歌声がまざって聞こえてくる。
僕ははたと気づいた。
「明日って……クリスマスイブ?」
自分で言って、自分で悲しくなる。
世の中が赤や緑や金色で騒がしくなるこの時期、幼い頃から寺で教育されてきた僕の虚しさは最高潮に達するのだ。
人々がなぜ浮かれているのか分からず、共感もできない。
救世主の誕生日を祝うのだとしたら、仏教ではブッダ、すなわちゴータマ・シッダールタの生誕を祝う祭りが、毎年四月に厳かに行われるが、世間は大抵花見の話題で持ちきりである。開花宣言よりも大切な救世主の誕生日を、現代日本人の何割が正確に思い出せることだろう。
なんとも、虚しい。
そうこうしていると、ブオッッという音とともに靴下の踵の方が掃除機によって吸い込まれた。いや、引っ張られた。
「鏡之助君、明日クリスマスツリーを買いに行ってください」
「……え、」
「私の背丈くらいのツリーです。それから飾りも、LEDも。クリスマスにツリーがないなんて死にそう」
「神社にツリーは……置かないよ」
「これからは置きます。日本の神は懐が広いのでしょう? 仏が許されているのだから、神も許されないとおかしいのです。すべて平等で、自由なのです。だからツリーは置きます。神仏習合です」
「ええぇ……なんて強引な、」
何だか、また胃が痛くなってきた。
掃除機のスイッチが押され、ふたたび轟音が聞こえ始める。
「あと早く荷物とってきてください」
昌ちゃんの叱咤を背中にあびながら、僕は重い腰をあげた。
前途に、難しかない。
どうしてこんな道を選んでしまったのだろうと首をひねりながら、僕は社務所を出て歩き始めた。
叔父の気配は、どこにもない。
叔父は――生きているのだろうか。
死んでいるかもしれないという疑念が、脳裏をかすめた。
「龍よ、」
ふと、声がする。
雪の上ふりむくと、社の前に人影が見えた。
真っ白な着物に玉飾りを沢山つけた――古代の巫女のような格好の女性だ。
急に空が晴れ渡り、社が消えて森となり、春の香りとともに小鳥のさえずりが聞こえてくる。
「あなたは――、」
どこか懐かしい心地に、思わず歩み寄る。
しかし、思い出せない。
彼女は、どこの誰だったか。
「これから、瀧で祈りを捧げる。この地に宿りし偉大なる龍神のために。どうか来てほしい、われの神よ――」
凜として美しく、背筋のすらりと伸びた彼女は、女王のごとき堂々たる威厳で微笑んだ。
手招かれ、ふらり、ふらりと引き寄せられた僕は――すんでのところで正気を取り戻す。
これは――共視だ。
過去に誰かが見た景色を、まるで自分が見たように――視ている。
彼女はこちらへ、「龍」と呼びかけた。
彼女が呼んだのは僕ではない。「龍」なのだ。
シャランと、彼女の手の榊が鳴った。
背を向ける彼女と、遠ざかる想い。
この――どうしようもなく苦しい想いは、何だろう。
どうしようもなく甘く、痛い心――僕の人生では未だかつて味わったことのない、不可解な情念。
感じている誰かは、「龍」なのだろうか。
彼女の背中が、社の向こうに消えた。
黒々と浮かび上がる社は、もう長らく誰も入っていない様子だ。社務所が済んだら今度は社を掃除しなければと思いつつ、僕は踵を返した。
自分に言い聞かせる。
まずは、リュックサックを取ってくる。
共視の真相は、それから確かめにいく。
僕がここでまともに生活できなければ、謎を解くことなんてできないのだから。
一礼して鳥居をくぐり、雪の石段を気をつけながら下りていく。
――龍。
――龍之助。
二つの存在は、重なり合っているのだろうか。
重なり合っているとしたら、どのように。
その重なりは――この宇宙の一枚絵に、どのような模様を浮かび上がらせているのだろう。
ふと左手に熱さを感じて見れば、母がくれた腕輪の銀石――たしか隕石のギベオンが光っていた。
足を止めて目を閉じれば、やはり銀の光が見える。
――龍。
この腕輪にも、どうやら龍が関係しているらしい。
そう思った時、急に昌ちゃんが胸につけていた銀の十字架が瞼に浮かんだ。
何だか、あまり穏やかでない雰囲気だ。
「……分かったよ、急ぐよ……、」
何だか寒気のした僕は、ともかく先を急いだ。
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