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「……えっ?」
動揺のあまり一瞬足を止めてしまったが、我に返って再開した。聞き馴染みのある、最愛の人の苗字。すぐにでも助けに向かいたい気持ちに駆られたが──当然、今は水川さんの救助が先だ。
隊員は今、自分一人。時間が経てば、炎も徐々に上へ迫ってくる。状況はどんどん悪化する。
どうすれば……どうすればいい……何か手は無いのか……。
焦る気持ちとは裏腹に、ゆっくりとした歩幅で階段を降りる。
すると──下の階から、勢いよく駆け上がってくる足音が聞こえた。
「照平! 大丈夫か!」
朝倉さん。
良かった──いいところに来てくれた。顔にたくさん付いた煤が、一階を満遍なく捜索していたことを物語っている。
「こっちの要救助者は二人です。ここにいる水川さんと……それと……」
「それと、何だ」
「白石 若菜──まだ三階にいるそうです」
「はぁ⁈ 本当かよそれ」
嫌な予感はここまで当たってしまうのかと、自分を責めた。よりにもよって、逃げ遅れた人の中に若菜が混ざっていたなんて……信じたくない事実だった。
絶望と危機感に苛まれていた、その時──。朝倉さんが、俺の目を覚ますように背中をバンッと叩いた。
「水川さんは俺に任せろ。照平、お前はすぐ三階に向かえ」
そう言って、水川さんのもう一方の肩を朝倉さんが支える。「ありがとうございます」と言った水川さんは、俺の肩からスルリと力を抜いた。
ゆっくりと階段を降り始める朝倉さん。最後に、強い口調でこちらに声を張り上げた。
「愛する人が待ってんだろ! 早く行け!」
「──! はいっ!」
*
三階に到着する。
煙が徐々に充満し始めているオフィスには、備品や荷物があちこちに散乱していた。社員達の急いで脱出した姿が容易に想像できる。
「若菜ー! どこにいる若菜ー!」
掻き分けても掻き分けても、煙は続く。思わず漏れてしまう咳を腕で押さえながら、祈るような気持ちで足を進める。必死の呼びかけも虚しく──未だ返事は無い。
最悪のシナリオが頭をよぎる。
このまま若菜が見つからず、一階の炎は激しさを増して撤退命令。あのプロポーズを最期に──二人の関係は終わりを告げる。そんなのは絶対に嫌だ。
「はぁ……はぁ……若菜、もう少しだけ待っててくれよ……」
若菜、好きだ。すごくすごく好きだ。
会いたい。たとえ夫婦の価値観が違っても──同じ方向を向いて、同じ未来を見ていたい。喧嘩になっても、たくさん悩んで二人で話し合いたい。一瞬でも"別れ"がチラついた俺が馬鹿だった。
必ず見つける。必ず助け出す。そう言い聞かせ、自分を奮い立たせる。
するとようやく──自分以外の咳き込む声が、微かに聞こえてきた。
耳を澄ませる。一番奥にある給湯室からだ。
「若菜! そこにいるのか⁈」
無我夢中で体が動く。
そして、一直線に駆け抜けた先に──最愛の人が待っていた。うつ伏せで倒れている彼女の横に、急いで駆け寄る。
「若菜! 若菜! 大丈夫か⁈」
「……えっ。照平、君……?」
煙をたくさん吸い込んでしまったのか、意識は朦朧としていた。肩を揺すり、俺はここにいるぞと必死に伝える。
「あぁ、俺だ! 助けに来た! もう大丈夫だ!」
「ごめんなさい……私、奥で仕事してたら逃げ遅れちゃって、それで……」
「そんなのは今いい! とにかく早く逃げよう──!」
肩を担いで若菜の体を起こす。話したいことは山ほどあるが、今は脱出するのが先だ。
これで要救助者は全員。ふらつきながらも足を進める若菜と肩を組み、ゆっくりと確実に出口へ向かった。
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