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8. 蒼太(そうた)
その夜、消灯台の上に置いた歯を見ながら、僕は付箋を手に取った。
読書灯の淡い光を頼りに、丁寧に書く。
『なにしてほしい?』
朝起きても、返事はなかった。
退院の日になった。
熊さん医師や看護師さんに、両親と挨拶をして外に出る。
車の後部座席に乗ろうとしたら、母さんが先に乗り込んだ。
「蒼太は助手席ね」
「見せたい場所があるんだ」
既にシートベルトまで締めた母さんに言われたら、従うしかない。運転席の父さんに手招きされて助手席に座る。
フロントガラスいっぱいに広がる空は晴れていた。
家とは反対方向に車は進む。
どこに行くんだろうとナビを確認したら、覚えのある住所だった。小学校に入る前に住んでいた家の周辺だ。
「あのクリニックでね、妊娠が分かったの」
信号待ちの間、母さんに言われた方向を見ると、小ぢんまりとした建物が見えた。
「双子って言われて、びっくりしたけど嬉しかったなあ」
信号が変わって車が動き出し、やがて河川敷近くの駐車場に停まった。
散歩しようと促されて、川沿いの歩道を三人で歩く。
何のために来たのか分からないまま、しばらく両親の後ろを歩いた。
この辺は河口付近で海風も混ざるのか、風が少し重くて湿っぽい。陽の光が水面を跳ねる眩しさに、僕は目を細めた。
少し見上げればどこまでも視界を青く染める空を眺めていたら、「流産が分かった時」と母さんが切り出した。
「こんな風に散歩しながら、なんで二人とも育たなかったんだろうって考えたの。そしたら父さんが、生きてる子の名前は蒼太がいいって言ったのよ。空に還った子の分まで、大きく強く生きて欲しいからって。性別もまだ分からなかったのに」
「いいこと言っただろう」
「その一言で台無しだよ」
父さんとのやり取りがツボに入ったのか、母さんはしばらく笑い、やがて涙を拭うと僕を見つめた。
「全部消えたと思っていたけど、蒼太と一緒にいたのね。手術で痛い思いさせてごめんねと思うけど、もう一人の子に会わせてくれてありがとうって気持ちもあるのよ。これできちんと弔えるから」
僕にもう一度お礼を言って、母さんはUターンした。
――ここまで大きくなったのを誇っていい。
熊さん医師の言葉は、両親の願いに対する答え合わせだった。
僕の中にいたもう一人は、大人たちの言葉を聞かせたかったのかもしれない……そんな非現実を信じたくなるほど、僕の心は穏やかだった。
家に帰って、僕はあの歯を庭に埋めた。虫じゃないんだからと母さんは引いていたが、これで良いと思う。
かつて飼っていたカブトムシも眠る地だと伝えたら、喜ぶかもしれないじゃないか。
あれから付箋を出したまま寝るのが習慣になったけど、ミミズ文字が並ぶことは無かった。
その代わり、玄関に写真立てが並ぶようになった。何年も前に片付けられた、僕が赤ちゃんだった頃の物だ。
喉まで出かかった文句は飲み込むしかなかった。
写真立てはもう一つあったからだ。
「行ってきます」
いってらっしゃいの声を背にドアを開ける。
隙間から差し込んだ光が、写真立てを照らした。
二つの袋が並んだエコー写真。
僕らの、最初で最後の記念写真だ。
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