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僕は集中治療室にいた。
人工呼吸器・ECMOがつながり全く身動きが取れない。かろうじて眼だけを動かし、ガラスで仕切られた壁の向こうを見た。防護服姿の朱美と翔が不安そうな眼でこちらを覗いていた。
得体の知れないウイルスが世間を騒がせてもう2年。凄い勢いで感染が拡がり、重篤だと深刻な肺炎の症状を見せていた。僕らの家族はピーク時を何とかやり過ごしたが、ここにきて油断した。遂に僕が感染だ。
僕は3日前から微熱が続き、昨日から40度を超え呼吸困難になっていた。慌てた妻が救急車を呼んで即入院となったのが今日の明け方だった。
昨晩の夢は妙だった。
僕は息子の翔を連れて近くの川沿いを散歩していた。僕たちが川に掛かっている大きな橋の下を通ると、似顔絵を描いたキャンバスを立てかけた絵描きがいた。どうやら通りがかりの人物の顔をスケッチし商売にしているようだ。少し長めの髪に野球帽を目深に被り、ブルーのサングラス。デッキチェアに座って、ワイヤレスイヤホンを耳に川を眺めてる。椅子の後ろにギターがあった。年のころは僕と同じくらいか。
サンプルの絵はモノクロだったが、著名なスポーツ選手の躍動する姿だった。大谷翔平、八村塁、大坂なおみ、羽生結弦、久保建英。一目で彼らとわかるよう競技を取り入れ、特徴をデフォルメして描いてある。翔が食い入るように一つ一つの絵に見入っていく。やがて、後ろの方のスケッチを指して僕に振り向いた。
「お父さん、この人、誰?僕、この人だけ知らない」
「えっ、どれ」
イチローだった。
若い外国人の観光客のカップルが通りかかった。
「Wow! Look, Jimmy. What’s a cute! 」
「They are so cool!」
「Yah, Cathy. I see」
「Pretty good」
彼らは大袈裟な賛辞と共にひと通り絵を見た後、絵描きの前で歩みを止めた。絵描きはイヤホンを無造作にデッキチェアに置いて立ち上がる。微かに聴こえるギターの間奏。ビートルズの”And I Love her”だった。絵描きはカップルへ応対し始めた。まるでネイティブのような語り口。僕は驚きを持って絵描きを見つめた。髪の隙間からチラリとのぞく白いうなじが艶めかしい。どうやら交渉成立。絵描きは絵筆を手に取った。
翔は絵に飽きたようだった。
持ってきていたサッカーボールでリフティングを始めていた。僕の目は自然に翔を追っかける。次第に翔の姿があの時の彼に重なっていく。
小学校5年、2学期だけの同級生。ちょっとクールでうなじがきれい。絵が上手くて、英語も上手。ギターも唄もサッカーも得意だった憧れの彼。彼は3学期に突然転校していなくなった。短いけれど甘く切ない彼との濃密な刻。振り返れば、あれは僕が人を初めて好きになった瞬間だった。
「Thanks a lot. This is great」
「I love it.」
「Ba, bye」
カップルが絵描きに手を振りながら去っていく。その時だった。
「あっ」
翔の蹴り損ねたボールが川の方へ転がった。
僕の横を一陣の風が吹き抜けた。気付けば絵描きが川べりでボールを受けていた。見事なダッシュ、あっという間の切り返し。絵描きが柔らかなリフティングを始めた。
「さあ、つかめ!」
絵描きが翔目掛けてオーバーヘッド。あっけにとられて棒立ちの僕。お礼の言葉も出てこない。
絵描きは何事もなかったかのようにクールにスタスタ元居た椅子に戻って行った。その瞬間、僕の頭にもう一つの鮮烈なシーンが舞い降りた。
高校1年、サッカーの新人戦。憧れの彼との劇的な再会。
走る、躱す、蹴る、瞬く間にゴール。若駒のような彼がグラウンドを縦横無尽に駆け巡る。僕は敵側のベンチで惚けたように見惚れるばかり。極めつけは、彼がわざとボールを出して僕の傍で囁いたあの言葉。慕情が破裂し涙まみれの僕。頭上には、夕暮れ前の白い月が儚げだった。
「シ・ミ・レ・ド♬~」突然、胸に迫るイントロが流れた。
絵描きがギターを弾いている。
「I give her all my love ・・・」
伸びやかな高音。”And I Love her”だった。
僕は全身が痺れて息もできない。
絵描きの唄が終わった。
サングラスを外して僕を見た。
「久しぶり」
夢から覚めた僕の顔。頬が涙でずぶ濡れだった。
入院も今日で10日目だ。僕は一般の病室に移って面会も許されていた。身体も気持ちも軽かった。
朱美もほっとしたのだろう。僕が居ない間に起きたニュースや身の回りで起こった出来事をさっきから止めどなく喋ってる。その一つに東欧で始まった侵攻があった。僕の気分は落ち込んだ。侵略された街は、僕の勤務する庁舎の街と姉妹都市だった。
「そう言えば、あなた。最近、川の近くの億ションにアメリカで有名になった野球の選手が引っ越して来たって、噂でもちきりよ。良い天気の日には川べりで絵を描いているらしいわ」
「えっ」
僕は思わずベッドから半身を起こして朱美を凝視した。
「今度、三人で行ってみましょうよ」
雷に打たれたような衝撃だった。胸が詰まって返事ができない。
朱美の話は止まらない。
「あっ、そうそう。翔、学校で英語が始まったでしょう。その先生ね、あなたのこと知っているみたい。先生がこの手紙を付けてCDをお見舞いって渡してくれたんだって。翔の話では、あなたと小学校時代に同級生だったんだって。英語だけの特別講師なんだけどサッカーが上手くて、絵や歌も上手いみたいよ。凄い偶然ね。はい、これ」
僕はきっと、鳩が豆鉄砲を食ったようだったのだろう。朱美の手が僕の目の前でシャッターを切る様に上下した。そして、僕の額に手をかざして言った。
「大丈夫?あなた。また、熱出た?」
「あ、いや、大丈夫」
僕は渡されたCDと封筒をじっと見つめた。
CDはビートルズのバラード集。冒頭の曲は”And I Love her”。
封筒を破ろうした僕の手が震えている。
「あなた、本当に大丈夫。後遺症?」
朱美がぶつぶつ言いながら僕に代わって手紙を出した。
それを開いた僕は、今度こそ目が点になっていた。
そこには一言。
「久しぶり」
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