Prologue アブソリュート・ノーツ

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 Prologue アブソリュート・ノーツ

 この世界には、絶対の善悪など存在しない。  人は己の信じる共同体が決めた「善」と、そのコミュニティが「悪」とする原理原則の間で揺れ動くだけだ。  それでもだ!この世界には絶対の善悪が存在しないのだとしても、「絶対の音楽」とそうでない音楽は存在する。  絶対の音楽?  この世界において絶対の善悪すら存在しないのに、そんなものがあるはずないだろ!普通なら、そう思うだろう。  でも、あるんだ、これが!……あ・る・ん・だ・よ!  この矛盾を肯定したり、同意してもらう必要はない。ただ、オレにとっての矛盾の真理として、そこにあるだけなのだから……。  だが、それはどこまでいっても、個人にとっての「絶対の音楽」にすぎない。人が個として生きていく時間の中で、圧倒的に美しく、聞いた瞬間から魂を揺らし続けられる音の粒のことだ。 「実は、この曲を聞くために、自分が生まれてきたのではないか?」  そんなことさえ思ってしまうようなコード進行とモーダルな旋律。  そこから広がる空間、自然、世界、宇宙。そして、運命、生死、救済。  その音粒たちに触れた刹那、脳内麻薬が溢れ出し、決して消えない刻印が魂に穿たれてしまう。そんな楽曲が確かに存在する。  それが、一人の人間にとっての絶対の音楽だ!  逆に、聞けども聞けども、そんな境地に至らない音楽が、おしなべて「絶対ではない音楽」なのだろう。少なくとも、オレはそう思っている。  ただし、人が生きていく時間の中には、いくつかの絶対の音楽が存在する。  ならば、最初に「絶対だ!」と思えた曲は、何だったのだろうか?  そうした疑問も、ある程度長く生きたオトナを常に悩ませる問題だ。  だが、オレは薄々感ずいている。  おそらく、あの瞬間が絶対の音楽に触れた瞬間だった、のかもしれないと……。認めたい気持ちと、認めたくない感情がせめぎ合う、この感じ。  あぁ………………ああ、そうだ!  それを確かめるために、今夜、オレは久しぶりに新宿へ向かっている。  一通の招待状を受け取っちまったからだ。  それによれば、新宿の、とある老舗ジャズクラブで、生きながらにして伝説と化したプレイヤーの生演奏が行われるという。  生きながらにして伝説(リヴィング・レジェンド)?……ふざけんなって!伝説になったのならば、のこのこ俗っぽい繁華街に出てきちゃいけないだろ!  どういう経緯で、その招待状が届いたかは知らない。  だが、少なくとも、そこに記された事実の中で、「伝説のプレイヤー」と呼ばれていたのは、オレの高校時代の同級生なのだ。   しかも、まだ現役。……の、はずだ。  だけど、伝説って……おい!  勝手に死んだふりさせるな、オレの親友を!  そいつはただの同級生というだけではなく、ティーンエイジャーの頃に出会った奴らの中では、死ぬまで忘れられないだろうという存在の一人だ。  奴は若くして世界的に著名なジャズのプレイヤーとなり、数々の賞なども得ながら、ある瞬間に表舞台から姿を消し、死んでもいないのに「伝説のプレイヤー」と言われるようになった。そんなことは、織り込み済みだ。  しかし、そこに至る詳細を、オレは知らない。  知りたくもないし、むきになって真実を追いたい、とも思っていなかった。  なんとなく経緯は耳にしていたが、長い間、世界中のジャズファンがやっきになって奴の行方を追う様を、どこか冷めた笑いで眺めていた。  なぜならば、そいつは高校生の頃から、そんな奇行を繰り返していた「不思議ちゃん」であり、身近にいた者としては、当時からさして問題にもしていなかったからだ。  だいたい、奴の奇行と奴の奏でる音楽は、本質的にほとんど関係がない。  まるで、絶対の音楽とそうではない音楽は、違った時空、あるいは違った宇宙に同時並行で存在するのだ、といわんばかりに……。  簡単に、言おう。  奴はやりたい時に天才的なテンションでやり、やりたくない時にはいつも、借金取りに追われるクズのように逃げ回った。  それがどういう動機によるのかは、傍にいたオレら親友たちですらわからなかった。  まあ、わかりやすく言えば、奴は高校生の頃から、いつ何刻、目の前から消えてもおかしくないと親友たちに思わせるような「不思議ちゃん」だったということだ。そう、オレらが稚拙なバンドをやり始めた頃から……。   そのバンドメンバーの一人が高校卒業後、米国の音楽大学に留学し、いつの間にか世界的なプレイヤーとなったにも拘わらず、人気絶頂期に行方不明となった。  そんなスキャンダルが伝説と言われ始め、それさえもが風化し始めた今、この期に及んで友だったオレに演奏会の招待状が送られてきたのである。  ─やっぱり、あいつは救いようのないバァカか、あいかわらずの不思議ちゃんだ……。  そんな風にしか思えなかった。  しかし、オレは無視どころか、スルーさえもできなかった。  傍にいた頃のあいつは、いつも特別で、それに……。おそらく、奴がオレの前で最初に「絶対の音楽」を奏でたプレイヤーだから、なのだろう。  くそっ、いま思い出しても忌々しい………………………。  久々に会う、そいつの名は、澤田射果(さわだいるか)。  通称、イルカ。またの名を、ドルフィン。  
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