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早く。早く家に帰らなきゃ。
私は閑静な住宅街を歩いていた。早く帰りたいのに、右も左も見知らぬ景色。闇雲に歩き回る私と同じように、街路樹の下にこんもりと積み重なった枯れ葉が風に吹かれて右往左往する。
せっせと歩を進めた先、ふいに住宅街が途切れ、見覚えのあるものが見えた。映画館だ。
右から読むネオンの看板。古びたモダンな建物。昭和の小ぢんまりとした映画館、といったところ。駐車場に車は一台もない。寂れた雰囲気を見るに、営業はしていないのかもしれない。
吸い寄せられるように入り口へと歩み寄ると、中からうっすらジャズの音が漏れているのがわかった。私は好奇心から、金取っ手を掴んで扉を押した。漏れ聞こえていたジャズが、一気に私になだれ込んでくる。
中はまるで豪華な英国ホテルだった。みっちりと赤い絨毯が敷かれた床。螺旋階段の上には立派なシャンデリアがギラギラと輝いている。
「1名様ですね」
口を開けたまま上に見とれていた私は、慌てて向き直った。黒いスーツを着た品の良さそうなお爺さんが、カウンターの向こう側で微笑んでいる。
「ええと……」
興味本位で入ってきてしまったことを正直に申し出ようと思ったが、お爺さんはもう手元の券のようなものを清算し始めている。
どうしよう。お金、持ってたかな。
私はその時初めて、自分が手ぶらだったことに思い当たった。ズボンのポケットを探ると、何やらコインに手が触れる。手のひらの上で眺めてみるとそれはコインではなく、小さなステンドグラスだった。夫と娘と一緒に長崎へ行ったとき見たものによく似ている。
「いただきます」
お爺さんが手を出してくるので、訳も分からずそれを手渡した。引き換えに、映画の上映券を受け取る。
「そこの螺旋階段を登り切ってすぐのドアを開けてください。席はご自由にどうぞ」
促されるまま、螺旋階段をのぼった。のぼりきった突き当りにドアがひとつ。廊下の先を見ると、ドアは全部で3つ。私は言われたとおり、いちばん手前のドアを開けて中へ入った。
真っ暗な中に、前方の大きなスクリーンだけが煌々と眩しい。席は全部で50席ほど。アットホームな印象で、私の他に客はいないようだった。
迷うことなく最後尾真ん中の席に腰かける。夫と映画を観るとき、彼は迷わず最後尾真ん中に座った。背が高かったので、他の客への配慮だったのだろうと思う。ひとりで来たのにほとんど癖で同じ場所に座ってしまって、私は苦笑した。
映画なんて久しぶりだわ。
そもそも何が上映されるのだろう。ポスターの1枚や2枚貼ってやしないかとあたりを見回していたら、目の前の真っ白なスクリーンが一瞬暗転し、映像に切り替わった。
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