人気テノール歌手の義経くん、人を殺す

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 しばらく間が空いて、壇ノ浦も義経くんも、後部座席の弁慶も黙ったままでいた。  弁慶に呆れられそうだ。ステロイドがどうこうではなく、細くて偉いねはおかしかった。もう少し気をつけないと。 「僕は運転をしないので」  やがて義経くんが言い、ちょっと会釈するような動作をした。車を出してくれて、ありがとうってことだろう。 「きらいなの?運転」 「いえやったことがなくて」 「やったほうがいいよ、何でも」 「壇ノ浦さんがいうなら、やってみようかな」  都会に住む義経くんにとって、車は持つメリットがないのだろう。  それでも彼は可愛げを出してみて、考える、と言った。そう言っただけかもしれないけれど。 ──あなたは歌手になるのなら、他のことはすべて他の人にやってもらいなさい。他のことをやってもらうんだから、あなたは舞台に出たら絶対に失敗せずに、一番、いい仕事をしなさい。  そんなことを言う、うたの先生もいた。  壇ノ浦的には、これは時代遅れだと思う。若い頃はわからなかったが、そう思うようになった。  生まれてから死ぬまで、ずっと歌っていられるわけではない。交通事故に遭うかもしれない、重い風邪にかかってもう声が戻らないかもしれない。ある日突然そういうふうになるかもしれないのだ。  目が見えなくなるかも、耳が聞こえなくなるかも。精神の状態が良くなくなるかも。どんな職業の、どんな人生の人だってそうだろう。  でも声楽の歌手はとくにそうだ。その先生の言うとおりにしていたら、そのあとの人生はどうなる?早くに引退せざるを得なかったテノールたちは、その生き方で、一体どうしたらよかったんだろう。  誰だって、舞台で失敗することはあるじゃないか。そうしたらもう、存在意義がないってのか。  そして、自分が歌わなくなったら、ということを、壇ノ浦はよく考える。若い人たちのことも。  とにかくいろんなことをするべきだ。逃げ道があれば、逃げないでも済む。逃げ道がないのに逃げたくなったら、それこそトスカの終幕のようになるしかない。 「たくさん恋もしないとね、絶対。よく言われるでしょ」 「……」 「恋愛っていうのはどっかから落ちないためのセーフティネットにもなるし──」 「そうしたら、もちろん殺人もですか」 「はい?」  はい?とか言ってしまった。けっこう真剣なことを考えていたのに。 「オペラはラブストーリーが多いけれど、人死にのある場面もたくさんあります」 「た、たしかに」  トスカでは、義経くんの役は壇ノ浦の奸計により銃殺されてしまうし、壇ノ浦はトスカに刺されて死ぬ。 「いや、あのさ、待ってほしいんだけどさ」 「はい」 「恋愛はみんなするじゃない。殺人は、しないでしょ……」 「しかし、やったほうがいいんですよね。芸事には経験が大事だっていいます」 「いくらなんでも。殺人は犯罪だぞ」  義経くんが、これを本気で言っているんじゃない、ということは、壇ノ浦にもわかる。 「恋愛は絶対したほうがいいけど、殺人はやらないでごまかせ、ってことですか」  恋愛は多くの人がしているのだ。一方で、殺人をする人は少ない。  恋愛は、多くの人が自分の経験を照らし合わせて、その演技を審査する。殺人は、多くの人はやったことがないので、殺人の演技がちょっとおかしかろうとも気づく人間は少ない。  人を殺したときはそんな表情はしない!なんて、断言できる人はほとんどいない。  恋愛をあまりやったことがなければ、弱点になる。表現者として大きな疵になる、ラブソングばかりを歌うのに、と壇ノ浦は思う。  恋愛は壇ノ浦にとって、つらいこともあるけれど、楽しい。歌といっしょ。人生と同じだ。  『歌に生き、恋に生き』とまではいかないが、どちらも壇ノ浦にとって人生における大事な要素だ。 「実際、今までやった曲とか、役とか、アリアとかをね。表現するために、君のこれまでの恋愛は役立ってきたわけでしょ」  義経くんは、黙った。うしろの弁慶も息を呑んで黙っている。いや、弁慶は息をしていないのだ。 「したことがないんですが」 「何が?」 「恋愛を」  えっ、嘘だろ、もったいない。その顔で!?   「忙しかったんだね。これからきっと運命の人が見つかるよ。ロミオとジュリエットみたいに」  壇ノ浦が横目で窺うと、義経くんは妙にさらっと乾いた和三盆みたいな、そんな顔でちょっとわらった。  ロミジュリは悲劇なのに、例えに出したのがおかしかったんだろうか。もっと違う二人組にしたらよかっただろうか。  任意の男女二人組に。  ものすごく歌のうまい人が、ひとに歌を教えようとするんだけれど、ぜんぜん相手の呑み込みが悪くて話にならない、諦めちゃった。という感じだった。そういうときって、ものすごく優しくなるんだよな。  すごいね壇ノ浦くん。発音だって素晴らしいよ壇ノ浦くん。いい声だね壇ノ浦くん。音楽のことがぜーんぶよくわかっていてすごいね?壇ノ浦くん……。  義経くんは柔らかに優しく笑った。   「いえ暇でしたよ」 「そんなわけないだろ。留学してたんだから」 「留学していても、貧乏でも、非社交的でも、恋する人はするんじゃないですか。聞きますけど、壇ノ浦さんはいかがです」 「まあ、そう、そうかな」 「今の失礼でしたか」 「……いや」  たすけて!弁慶! 「僕の歌を聴いて、恋愛したことがないんだなあ、と気づきましたか」  義経くんは、生き生きとして情熱的だ。  ロミオならロミオだし、ロドルフォならロドルフォだ。歌い出すと完璧になる。魅力的な声で、へんなところがなくて、まるで彼のために書かれた曲みたいで、素晴らしくてうっとりしちゃう。愛だ。  プッチーニもドニゼッティも、遠い東洋で彼が生まれることを予見していたんじゃないか、なんて気にさせられる。  そういえば義経くんの恋愛の噂は聞かなかった。でも、なんとなくミステリアスで恋多き男なんだ、というイメージで見ていた。たぶんみんな見てる。だってなんかそんな感じが出てるもん。  この子性質わるいんじゃないかな、とさえ壇ノ浦は思っていた。テノールはそういう奴が多いから。  恋したことがないなんて、気づかなかった、と壇ノ浦はつぶやいた。  これ以上、足すところも引くところもない、義経くんはそんなスペシャルなテノールなのだ。喋るとこのように、少し変わっているが。   「僕のことを、いい歌手になりそうだと思いますか」 「勿論」  いい歌手だ、ではなく、いい歌手になりそう、という言い回しが、壇ノ浦は可愛いと思う。 「恋愛をしなければ、優れた表現者たり得ない、というのは信憑性がうすいんですね」  義経くんは、さらりと言った。 「いや、あのさ、それ今話すこと?」  壇ノ浦は思わずそう返した。 「そんなのどうでもよくない?他に話すこと、たくさんあるんじゃない?」  ステロイドの話も、職業的寿命の話も、恋愛がどうかについても、今この場では話題として適切ではない。弁慶がうしろに乗っているのだぞ。  義経くんは我が意を得たりとばかりに、にこっとした。そうすると、やっと現世っぽく見える。   「僕は、ずっと、いつも、そう思っていますよ」
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