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プロローグ
青葉家葬儀会場――。
千葉市内のM駅近くにある葬祭場には、東京湾を吹き抜けた生暖かい風が届く。そこに、滅多に見られないほど多くの参列者が集まった。
大ホールの祭壇には棺が二つ並べられ、花々に囲まれた男女の遺影がどこか寂しげに微笑んでいる。
朗々と読経が響き、参列者の長い列が焼香へと流れていく。
親族の誰かが悲しみに耐えきれず席を外したのだろうか。祭壇近くの最前列に、誰もいないパイプ椅子がひとつあることに気づく者はいない。
その隣に座る和装の喪服を着た女が背後を振り返り、誰にともなく一礼して席を立つ。
音を立てず、軽く頭を下げながら、女はホールを出る。
喪服の裾を踊らせて、女はトイレの前で立ち止まった。数珠を持った白い手を、男の手がぐいと引く。そのまま男子トイレに引き込み、男女はひとつのボックスへ入った。
濡れた目が喪服の男を見上げた。言葉も交わさず貪るように唇を求め、互いの舌を野生のままに絡ませる。男の手が女の尻をまさぐり、女の手が男の股間を握った。男は喪服の裾を開き、白足袋の脚をさすりあげ女を愛撫する。
男の指先が女に届き、息が乱れた。
瞬く間に女は昂っていく。崩れるように跪き、男のベルトを外し、ジッパーを下ろす。剥き出しの男の欲望を女はつかみ、むしゃぶりついた。
やがて放たれた満足の証を女は呑み込み、口元を拭い、うっすらと嗤いを残してトイレを立ち去る。
ホールではようやく焼香の列が途絶え、読経が終わった。
喪主が短い挨拶を行い、火葬場へと車列が出発する。
*
市民斎場はうっそうとした木々に囲まれている。近頃北上してきたクマゼミは午前中で啼き止んだが、それでもアブラゼミやミンミンゼミが啼き競い、バスを降りた参列者たちに襲いかかる。
慌てて日傘を差したり扇子を開いたりと忙しいが、相手が蝉ではどうにもならない。参列者のハンケチは、涙より先に汗で濡れた。
やがて、最後のお別れのときがくる。
火葬炉は七番と八番。ふたつ並んだ棺の窓から顔を見て、さようなら、と喪服の女は心で告げる。
もうすぐ、幕が下ろされる――。
その想いを蹴飛ばし、粛然とした空気を乱す足音が、斎場の廊下に響いた。
タイルの床を蹴り、走る足音だ。
「それでは、お送りいたします――」
雑音に構わず、白手袋の係員が宣言した。
(なに?)
喪服の女が戸惑う。
火葬炉の蓋が開かれ、ふたつの棺が流し込まれようとする。
「ちょっと待った!」
女の声がホールに響き、半袖シャツの男女が数人、飛び出してきた。
肩で息をする女が、二枚の紙を突き出す。
「裁判所の鑑定処分許可状です。お二人のご遺体、司法解剖させていただきます」
化粧の濃い女だ。
年配の参列者が問うた。
「あんた、誰だ?」
「あたしは京本祭里。千葉県警の警察官です」
女は警察手帳を示した。
千葉県警察本部、刑事部捜査第一課、警部補・京本祭里、とあった。(つづく)
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