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『第1話:二人きりの密室(2)』
「行かないで、斎磨」
ようやく見つけた最後の一人をここで見逃すわけにはいかない。
「お腹すいて死んじゃう」
これ以上は無理だと、乃亜は斎磨の瞳を必死で見上げた。
なんとか伝わってほしい。
空腹は最大の調味料だと言うが、これ以上の空腹はただの暴力だと赤い瞳の中に映る乃亜の姿が懇願している。
「大げさな。それにその噛み痕はなんだ、全員そろってじゃなかったのか?」
「これは萌樹さんと三織さんが」
斎磨の服を掴む手とは逆の手で、乃亜は首筋を隠す。訴えが届かなかったことへの誤魔化しに、外した視線は暗い廊下の絨毯を彷徨っていた。
不可抗力だと、斎磨は言葉の意味をそのまま受け取ってくれるだろうか。
現場を見ていない人間を信用させるだけの関係性を持っていない身としては、鼻であしらう斎磨に対して効果があるだけの証言ができそうにない。
「さっ斎磨さんは食べなくても平気なんですか?」
この場を取り持たせるために編み出した質問は、次の瞬間、あっけなく散る。
「ああ、問題ない」
「・・・絶対、問題あると思うんですけど」
「何か言ったか?」
「いっ、いえ、なんでも」
「そういう目で見るな。俺とて必要になれば摂取する」
空腹を感じるようになれば斎磨も戻ってくるということかもしれない。でも、戻ってこないかもしれない。口約束でもない証言をまともに受け入れる精神は持ち合わせていない。
せめて何か「待てる」だけのものが欲しいと、乃亜は再度斎磨を見つめていた。
「乃亜、戻ってやらんこともない」
「えっ、本当ですか?」
「お前の働き次第だがな」
その言葉に笑みが隠せない。早々に片づけて食事の確約を取り付ければ万事問題はない。昨日今日知り合った人間の願いなんて、たいしたことじゃないだろう。空腹で万全の力が出ないことを考慮しても、それなりにやり遂げれば現状は打破できる。
乃亜は二つ返事で斎磨の提案に了承を告げた。
「ここ、は」
「書斎だ」
確かに書斎だった。
窓を横目に長い机と本棚があるだけの簡素な部屋。机の上にはランプが置かれ、何冊もの本が積み上げられている。いくつかは栞が挟んであり、そのうちの一冊は広げた状態のまま中央に置き去りにされている。
一体ここで何をしろというのか。
ただ言葉通り、散らかした部屋を片付けろという意味だったのかと、書斎に足を踏み入れた乃亜の疑問が振り返る。
「私は何をすれば?」
「お前と会ったあの泉について調べていた」
「えっ…ッうわっ」
机の上に積みあがっていた本が床に散らばる音が聞こえる。代わりに、乃亜の体は斎磨に組み敷かれるように上半身を机の上に乗せていた。
「ッ…さっ…斎磨?」
両手首を押さえつけてくる力に加減はない。褐色の肌に黒い髪が、ランプの影が作り出す闇の中から這い出てきたような不気味さを醸し出す。深紅のように赤い瞳は燃えるように揺らめき、じっと見つめられているとよくわからない感情が芽生えてしまいそうだった。
「弱いな」
「~~っ…んっ」
寄せた唇が耳元で囁く声は低く、吹きかけられた吐息は熱い。
ドキドキと脈打つ鼓動に耳をあてる斎磨の髪は柔らかく、目を閉じて祈るようにやり過ごしていないと何かが持っていかれそうな錯覚を感じてしまう。
それでなくても萌樹と三織の件がある。
人は見かけによらず獰猛な本性や性癖を隠し持っているのだと、この二日間でいやというほど学んだ。
「俺は強欲な娘は嫌いじゃない」
「やっ…なにす…ッ…ヤメ」
「さあ、乃亜。どうだ今の心境は?」
どうだと聞かれても、どう答えればいいのだろう。
これでは罪人と同じ。
反転した身体は後ろ手に回された状態で、胸を潰さないように紐で縛り上げられた事実だけ見れば、誰でも驚愕の声をあげるだろう。
「どうして、こんなこと」
私が何をやったというの。ありふれた言葉を続けることが出来たなら、それはひとつの進行を形成したかもしれない。けれど仰向けに組み伏せられた身体が、うつ伏せで縛られてしまった今、上から重力をかけるように自分の体重を乗せてくる斎磨を振り返ることさえできない。
机と斎磨に板挟みにされた体が、苦しさを肺に与えてくる。
「さて、これからが本番だ」
斎磨の手が乃亜の顎を掴んで、その瞳に例の広げられたまま放置されていた本を映し出す。
この屋敷の東側に位置する林の奥にある魔法の泉。古い日記の文面には「供物の相関性について」という小難しいタイトルが書かれていた。
「乃亜、お前はなぜ俺たちを呼んだ?」
斎磨の声は依然低いままだった。
「働き」の意味はきっとこれだったのだろう。それなら普通に聞いてくれればいいものを。彼らと出会ってたった三日。
信用信頼関係を築ける時間はどこにもなく、まして警戒されるのは当然といえば当然。
まったく未知の存在に対して攻撃的にならないほうがどうかしている。彼らにとっては異世界に来たも同然。それは他の誰でもなく、乃亜個人の願望によって引き起こされた事実なのだから。
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