第四章 理学部E棟の地縛霊

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 律子と樋口はその表情に影を落とし、後悔めいた空気を漂わせていた。根掘り葉掘り聞きたいところではあったけれど、これ以上刺激すると律子にマジギレされる恐れがあったので、結局そのあとは何も触れずすぐお開きになった。  その日のうちに継実から「アパートにいるので心配しないでください」というメッセージだけが届いた。その身が無事であることに安心はするが、これで心配がすっかりなくなるわけじゃない。その日は眠りに落ちるその瞬間まで継実のことが頭から離れなかった。   翌朝、私は平常通り高校に登校した。  その日の授業は全く身が入らなかった。それにとてつもなく眠かった。学園祭の手伝いで疲れていた上に、昨日の夜はあまり眠れなかったからだろう。気を付けていたものの数学の授業中に爆睡してしまい、教師にぺしんと脳天をたたかれてしまった。  それ以外は特に何もなく平凡に時間が過ぎ、やがて放課後になった。しばらくはコスモからの呼び出しもないはずなので、私は久しぶりにオカ研の部室でミチルと時間を潰すことにした。私は隣のクラスに行ってミチルを誘った。オカ研は本日休みのようだが、ミチルは私といっしょにいられるならなんでもいいようで、二つ返事でその誘いを受けてくれた。  オカルト研究会は北校舎の一階の空き部屋を部室として使用していた。机はなく椅子だけが片隅に積まれている。窓際に近づき、からから、と建付けの悪い窓を少し開けると、涼しい風がひゅうっと入ってくる。  私たちは窓の前にそれぞれ椅子を持ってきて、向き合うようにして座った。ミチルは、塾の件で両親と大喧嘩した話をし始めた。一方私は、誘ったくせしてどうしても気分が上向きにならずに、魂が抜けたようにぼーっとしてしまう。  昨晩、母親の目の前で塾の教材を破いてやった、と自慢げに話している途中で、ミチルが私の異変に気づく。 「おい、ヒナミ。聞いてるか?」 「え? ああ、ごめん。聞いてるよ。教材を破いたんだって? だめじゃない、物に罪はないんだから」  「何かあったのか。何かあったんだな。誰だ? お前を泣かしたやつ」 「ち、違うの。というか、私は泣いてないし」  ミチルはその芸術品のように整った美しい顔を、私にぐいっと近づける。なんでも見抜いてやる、と言い出しそうなグレーの瞳が私を離さない。ごまかしても無駄だと悟った私は、口を割った。昨日体験したことを包み隠さずミチルに話す。  話を聞いて、彼女が最初に放った言葉はこうだった。 「おいヒナミ。お前、ふざけるのもいい加減にしろよ」 「な、なんで私が怒られるの」 「ずっと追い求めてきた答えが目の前にあんじゃねえか。むしろ喜べよ。怖がってないで確かめろよ。そのために今までがんばってきたんだろ」 「怖がってる?」  私が? 「現に聞きそびれてるわけだろ」  まあ、確かに多少は臆病になっているところはあるかもしれない。  ――私がお父さんを殺したって言ったら、どうする?   あの発言の意味は現時点でもわからないし、おそらく詳細を聞いて愉快になる類の話ではないことは間違いない。父の失踪――いや、父の死にオカルトや超常現象が絡んでいないのはもはや明白で、そこには現実的な理由があるはずだった。  何かを知ったところで、今さら私を取り巻く環境が劇的に変化することがないのも理解している。けれどそれを知ったあとの心情がどう変化するのか未知な部分があり、踏み出しづらくなっているのかもしれない。パンドラの箱になりうるのなら、このまま蓋は開けないままでいいのではという気持ちが多少なりとある。 「あのな、ヒナミ。よく聴け。私、実は去年、学校辞めるつもりだったんだ」 「え? そうなの?」  予想もしていなかったカミングアウトに耳を疑う。彼女の顔は至って真剣で、冗談を言っているようには見えない。 「一年のとき、陸上部で居場所がつくれなかったし、クラスでもちょっと浮いてたからな。お前があのときかばってくれなかったら、たぶん私は今ここにはいない。あのとき私はお前に救われたんだ。日本も捨てたもんじゃないなって思ったんだぜ」 「そんな、大げさな」 「大げさなもんか。全部本当のことだ。私がお前にうそついたことなんてあったか? 大丈夫。謎が謎じゃなくなって毎日がつまんなくなっても。過去を否定された気持ちになったとしても。生きがいや目標がすっぽり抜けて何もやる気が起きなくなったとしても。また探せばいい。後悔するようなら今度は後悔しないようにすればいい。私たちはまだ高校生だぜ。何度だってやり直せる。何度でも挑戦できる。その気になれば何にでもなれるし、どこへだって行ける。そうだろ、ヒナミ」  ミチルは激励の言葉を投げながら、ばんばんと私の両肩を叩いてくる。それが痛くて目じりから少し涙が出てきた。 「ヒナミ、大丈夫だ。大丈夫だからきっちり過去と向き合って決着をつけてこい。過去を知ったことで仮に状況が悪い方向に転んだとしても、そんなことはこの先何度だって簡単に上書きできる。陸上部でいじめに遭ってこの高校に入学したことを後悔していた私が、お前と出会ってその考えを改めたみたいに」 「うん……」 「お前は大丈夫だ」  ふと、彼女の曇り一つないグレーの瞳をのぞき込んだ。  いつも陽気で、思ったことは何でもズバズバ口にして、周囲に迎合もせずに我が道を行くミチルに、妬みや反発があるのは知っていた。でも彼女が自主退学寸前まで追い詰められていたなんて知らなかったし、想像すらできなかった。  いつもケロっとしているから何も考えていないと思っていたのに。違うんだ。冷静に考えたら当たり前だ。彼女も普通の女の子なんだから。  私は服の袖で目元をごしごしこする。拭いても拭いても涙は止まらずに、しかも鼻水までいっしょになって出てきて、それはもう悲惨なことになった。ミチルは椅子を蹴飛ばすように勢いよく立ち上がり、こちらに近づくと私を力強く抱きしめた。彼女は私が泣き止むまでずっとそうしてくれた。  涙の理由はよくわからなかった。味方でいてくれることに嬉しさを覚えたからか。鬱々とした気持ちを吹き飛ばしてくれたからか。彼女の人間性の裏に隠れた健気さを感じたからか。将来に光を見たからか。  彼女の胸元辺りを涙で濡らし続けること約五分、ようやく落ち着くと、私はミチルの身体から離れた。  「ミチル。ありがとう。あんたが友達で私は幸せだ」  立ち上がり、改めて目元を袖で拭う。  「私、行ってくる」  私がそう言うと、ミチルはにっと歯を見せて笑った。
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