序章

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序章

 車から降りると身体が冷気に包まれた。吐く息が白い。まだ十月だが、時間帯によってはそれなりに寒くなってきている。そろそろ押し入れからコートを引っ張り出してこないとまずいだろう。  いい塩梅に夜は更け、辺りには闇が満ちていた。頭上ではすでに銀色の星たちがぎらぎらと輝いている。しばらく天を仰いだままの状態で固まり、宇宙の断片を網膜に焼き付けた。いつ観ても美しかった。この光景を拝めるのなら片道一時間の代償は安いものだった。  視界の範囲に住宅や建造物は見当たらず、周囲には牧場のような平野が広がっている。車の通りも少ない。海の波の音が聞こえてくる以外には音もなかった。まるで現実から引き離されて別の世界に放り投げられたような感覚すらあった。  これまでに様々な天体観測のスポットを巡ってきたものだが、この場所以上に星空の写真を撮るのに適した場所はたぶんない。札幌市内は夜中でも常に街の光が充満していて、星の光を掻き消している。西区の山に登ればある程度の光害は抑えられるが、相当山奥に行かなければここまでの絶景は味わえない。  トランクを開け、三脚とカメラ用のリュックを取り出した。それらを両手で抱え、所定の位置に運ぶ。  ケースの中から三脚を出して広げたそのとき、視界の範囲内が全体的にほんのりと明るくなったような気がした。怪訝に思い、作業の手を止めて周囲を見渡す。  まるで蛍光塗料を上から塗りたくったかのように、北の空が真っ赤に染まっていた。水平線の辺りが特に色が強い。仰角が大きくなるにつれてその色は徐々に薄くなり、夜空の藍色と絶妙なグラデーションを作っている。船や灯台は視界の範囲にはない。明らかに人工の光ではなく大気そのものが色づいているようだ。  リュックの中から大急ぎでカメラを取り出して、三脚にセットする。露光時間を六十秒に設定し、シャッターを切った。  後日、現像した写真を天文部の部員に見せたところ、真っ先に感光を疑われた。感光は、誤ってフィルムに光が入り現像後の写真が赤っぽくなるような現象である。周囲の理解は求めていなかったので特に潔白を証明するような活動はしなかったのだが、その疑いは翌日には晴れた。  どうやら、同じ時間、同じ地域で似たような現象を観測した人が他にもいたらしく、「奇妙な赤い光を観測!」という見出しの新聞記事が観測日の翌日には世に出回っていたらしい。部長がその新聞を後日入手し、部内でシェアしてくれたおかげで現像ミスやその他のインチキを疑われることはなくなった。  珍しい現象なので天文部の活動記録書に載せようという話になり、余分に現像した写真を部長に渡した。ただ部長が記事の作成をさぼったため、その写真が活動記録書に掲載されることはなかった。  写真がその後どうなったのかは、知らない。
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