第1話 万里

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第1話 万里

「先生の書かれる文章は、独特の間と空気感で読者を惹きつける魅力がありますよね」 だから早く新作を書けと担当編集者は言う。 何もないところから物語を紡ぎ出すのはそう簡単なことではない。 材料を用意してレシピ通りに焼けばいいケーキ作りとは訳が違うのだ。 山のように積まれた資料と書籍に囲まれて、青以(あおい)はノートパソコンの上に突っ伏したまま動かない。 ピンポーン ピンポーン…… 遠くで何かが鳴っているような気がするが、ぼんやりした青以の頭には響かない。 ピンポーン ピンポン、ピンポン、ピ…… 玄関チャイムが鳴り止むと同時に、今度は外から鍵が開けられる音がして、勢いよくドアが開く。 「おいコラ、ポンコツ作家!」 ドスドスドスという足音とともに声が近づいてくる。 「死んだか⁈ついに死んだのか⁈」 そして書斎のドアが蹴り開けられ、青以は後ろから乱暴に引っ張られ、顎を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。 「よし、生きてるな」 「……雄史(たけふみ)、何度言ったらわかるんだ……鍵を……返せ」 喋ると頭痛と目眩がして青以は顔を顰めた。 「……おまえこそ何度言ったらわかるんだ。その名で呼ぶな。殺すぞ」 言うが早いか、綺麗な紫色のグラデーションのネイルが施された長く形のいい指が青以の頬を思い切りつねった。 「紫織(しおり)さんって呼べ、ほら、し・お・り・さ・ん!」 「……紫織、寝てないんだ。頭に響くからやめてくれ……」 「は!頭が痛いって?んなの脱水だよ。どうせまた飲まず食わずで書いてたんだろ。食わなきゃ死ぬ。寝なきゃ死ぬんだよ、人間は」 「……わかった。わかったから少し静かに……」 青以は眉を顰めたが、雄史あらため紫織はまったくとり合わず、その細い腕に似合わぬ怪力で青以を掴み、立たせ、引きずりだす。 「あー!閉め切って淀んだこの空気!気持ち悪い!」
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