4節 絡みつく朝顔

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「わたしは人が好きなのです」  愛おしげな視線に、夏休み前の出来事が脳裏をかすめた。コーヒーチェーン店で見た表情と同じだ。  私が何かを言うよりも先に、花子が足を一歩前へ出す。ここは池のほとりだ。  花子の体がかたむく。銀色に輝く長い髪が、空中でさらさらと流れ落ちる。思わず手を伸ばしたけれど、つかめたものは何もない。  一瞬ののちに聞こえて来たのは、花子の体が水に打ちつけられた音だった。  水飛沫が派手に舞い上がる。慌てて駆け寄ると、水の中に一輪の白い椿が見えた。白侘助は自ら流した涙の中へと還ったのだ。  やがて、白侘助は朝顔の隣まで沈んでいき、一緒に水底へと姿を消していった。 「はな、こ」  あっけない別れに膝から崩れ落ちる。 「花子……花子……っ、花子……!」  何度も、何度でも、名前を呼ぶ。  そうしているうちに池の輪郭がゆがんだ。元は木霊の涙である。一瞬で消えたって不思議ではない。不可解なのは、池が干上がるように消えていくのに比例して、意識がぼんやりとすることだ。 「なんで――」  思い出せない。池の中で咲いていた花の名前が。  そもそも池だっただろうか。湖や沼だった気もする。ううん。そうじゃない。だって私は木春村に池があるって聞いた。 「誰に、何を聞いて、木春村まで来たんだっけ」  気がつくと、私は乾いた地面の上に座り込んでいた。なぜ自分がこんな場所にいるのかわからない。とりあえず立ち上がって服に付いた砂を払う。  ショルダーバッグの中にウェットティッシュが入っていたはずだ。私は手を拭くためにファスナーを開ける。  目的の物はすぐに見つかった。確かにあったのだが、私はあえて違うものを手に取った。  白い靴下だ。  私が持っている靴下はすべて紺色だ。包装紙がない以上は使用済みなのだろうが、素材の傷みは見られない。つまり使い込まれていない。私が新しく買ったのだろうか。 「あ……」  靴下が濡れた。雨粒が落ちたみたいに一か所だけが濡れた。なぜか視界がぼやけている。そこでようやく自分の涙が靴下に流れ落ちたのだと理解した。  自覚した途端、涙があふれて止まらなくなった。  理由もわからないのに、水たまりでもできるのではないかと思うほど、私は泣き続けたのだった。
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