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チャプター6
六
真っ暗闇の室内で、何か大きな物が床に落ちる音がした。続けて、力任せに激しく床を打ち付ける音が続く。
暗闇の中、リーサは床に転がっている。うめき声を発しながら、苦しそうに首を左右に振る。両手足を力任せに振るう。まるで水中で溺れているかの様な無様な恰好をしていた。
やがてリーサは自分の呻き声に目を覚ます。目を開いても、明るさは感じられない。水中とは異なる闇に自分が置かれている事に気づき始めた。がむしゃらに振るい続ける右手の甲が細い棒に当たった気がする。溺れまいと、必死に握った棒の感触にふと覚えがあった。
鏡台に備え付けられた、高い背もたれの椅子だ。
リーサの息遣いはまだ荒い。自分が池の中で溺れておらず、寝室の床に転がっている事に気づくまで、しばらくの時間を要した。
(どうして?)
何故、寝室に戻っているのか。月光に照らされた水面を鏡に見立てて、自分の顔を確かめるつもりだった。だが、自分は池の畔で足を滑らせた挙げ句、池に頭から飛び込んでしまったのだ。一体誰が、寝室まで運んでくれたのだろうか。
(でも……城には誰もいなかった)
気がつけば着衣も髪も水に濡れた痕跡は感じ取れない。リーサは大きく息をついた。相変わらず、寝室は暗いままだ。手探りで椅子にしがみつきながら立ち上がる。ふらり。夢遊病者さながらの足取りで向かったのは、部屋の扉。もう一度、城の中庭へ行かん……。夜明け前に、月光に輝く池の畔で顔を覗きたい気持ちがまだ残っていたのだ。
リーサはドアノブを握る。が、扉はびくともしない。幾ら捻ろうが、押しても引いても開かない。頑丈に封鎖されていた。
「そんな……」
喉から枯れた声が漏れる。思わず扉から後ずさりした。ドアノブを壊してしまったのだろうか、ドアノブの状態を調べたいが、暗闇の中ではどうしようもない。
(そう言えば、ランプが……)
と、思った瞬間だった。はたとリーサは立ち止まった。何かがおかしい。
(ちょっと待って!)
自分に言い聞かせる。覚束ない記憶を辿れば、ランプは中庭の穴に放り捨ててきた筈だ。今、寝室にランプが残っている事などありえない。それを確かめるべく、念の為、鏡台の近くの棚に向かう。棚の段をまさぐれば、ガラスの容器に手がぶつかった。中庭に放り捨てた筈のランプが元々ある場所に……しっかりと収まっていた。
「どうして?」
暗闇の寝室で、リーサは両手で顔を覆った。ふと別の事が頭に過ってきた。
「そうよ、猫よ。猫だわ!」
ベッドを振り返る。だが、暗闇に猫の姿は何処にも無い。
「確かに、猫が……」
果たして、如何なる猫であったか。リーサは自分の頭を掻き乱す。だが、猫の特徴がどうしても思い出せない。乱暴に?きむしった頭を整えるべく、鏡台の椅子を探し当てると座った。櫛を握り、闇に覆われた鏡を凝視しても自分の顔は映し出さない。幽かにだがぼんやりと上半身の輪郭が浮かんでくるだけだ。
「これではまるで、灰色猫ね」
自嘲気味に呟いたその時だった。先刻、心に浮かぼうとしていたものの、頭痛に襲われたために忘れてしまっていた或る言葉をふと思い出した。それは、欧州に古くから伝わる諺だった。リーサは小さな声で呟いた。
ーーAll cats are gray in the dark.
闇の中では、猫はただ灰色に見えるだけ。他の特徴など分からない。若かろうが、美しかろうが、醜く老いてしまっていようが、闇の中では何の意味ももたない。
恐る恐るリーサは自分の顔に触れてみた。リーサの唇が少しだけ醜く歪む。櫛を手放すや、そっと大きな鏡に手を伸ばす。灰色猫が映し出されていた辺りを指で優しくなぞってみた。
(あの灰色猫は……)
また寝室に現れるだろうか?
月夜の眩しい外界へと、自分を連れ出してくれるだろうか?
漆黒の大きな鏡に、灰色猫の輪郭がほのかに浮き出てくる事をリーサは待ちわびる。
それから二年後の一六一四年。リーサことエリザベート・バートリは暗闇の寝室で独り息を引き取った。
了
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