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チャプター1
リーサが幽閉されて、一年もの月日が過ぎていた。
一
十七世紀、ハプスブルク家がハンガリーを統治していた頃の話……。
初老の夫人がひとり、高い背もたれの椅子に座っていた。豪奢な造りをした大きな鏡台に向い、じっと前を見据えている。だが、夫人の顔は鏡に映し出されない。室内には明かりが一つも灯っておらず、すっかり暗闇に包まれていた。
それでも、夫人は真剣な眼差しで鏡に向かう。映っている筈であろう自分の素顔を探し続けていた。枯れ枝の様な細い手を自分の顔に伸ばす。頬から顎へと恐る恐る触れてみた。齢五十を過ぎ、カサカサになった肌の感触を覚えるや、引っ込める様に手を引いた。
はぁ……。
思わず吐息の様な溜息が漏れた。外界からの一筋の光さえも遮断される闇の中、夫人は眼を瞑った。息をこらし、耳を澄ます。厚い壁を隔てた外界から、小鳥のさえずりらしき音が聞こえてくる。どうやら外は昼間の様だった。
この夫人……リーサは幽閉の身にあった。
部屋に閉じ込められた挙げ句、全ての窓は漆喰で厚く埋められ、唯一の扉は廊下側から頑丈に封鎖されている。一日に一度だけ、扉の横に新しく設えられた小窓から、粗末な食事が提供される。幽閉されて以来、誰一人として訪れてきた者はいない。会話相手はおらず、暗闇の密室で孤独に毎日を過ごす……常人ならば、耐え切れずに発狂するだろう境遇の中、リーサは既に一年近くも淡々と暮らしていた。
リーサは眼を開ける。手探りで鏡台の上をまさぐる。櫛と思しき物を探し当てるや、長い髪をとかし直した。
四方、漆喰で塗り固められた暗闇の部屋である。それでも、長く居続けていれば、自然と眼が慣れてくるのか。漆黒の鏡に、幽かにだがぼんやりと上半身の輪郭が浮かんでくる様な気がしてくる。肌の色や目鼻の形は分からないものの、櫛にとかれる度になびく髪の様子ぐらいはどうにかして感じ取れる。
今日も丹念に髪をとかしながらに思う。今の境遇に置かれた自分に相応しい古い諺があった気がした。
(そうよ。これでは、まるで……)
口ずさもうとする時だった。リーサの頭に突然の痛みが走る。何金属をひっかく様な音に襲われた。耳鳴りだ。暗い部屋に幽閉されて以来、耳鳴りに襲われる機会が増えた。リーサは櫛を膝の上に置く。両手で耳を押さえる。今しがた、何を心に思い浮かぼうとしたのか、さっぱり思い出せなくなっている。頭の中の音が鳴り止むことをじっと待った。
その間、ふと妙な緊張感を……視線を浴びていることに気づいた。扉の横の小窓から誰かがじっと覗き見ているのか、此方の様子を伺っているのだろうか?
なんて無礼な輩なのか。頭に血が昇りそうな心地に襲われるも、リーサは堪えた。扉の方へ振り返らずに、ただじっと漆黒の鏡を睨みつける。鏡を介して自分の背後にある扉付近の様子を探った。
(あれは?)
真っ暗だった鏡に何か光るモノを見つけた。扉の横にある小窓は開かれておらず、幽閉されている部屋には光を放つ物は何も置かれていない。前かがみの姿勢で注意深く鏡を見つめる。
光点が二つ。息をこらして観察していれば、二つの光点は僅かに左へ右へと小刻みに動いている。光点の周りにじわじわと光が広がり始めてきた……。
リーサは何度も瞬きをした。鏡の隅に、柔らかな丸みを帯びたシルエットが浮かんでくる。まるで影絵に出てきそうな小動物みたいで……。不思議だった。暗闇に、全身灰色の猫らしき物体が一匹、鏡に映り込んでいる。ちょうどリーサの斜め後ろ。ベッドの上に四本足で立っているのだ。
リーサの額に汗がにじみ出てきた。唾を飲み込んだ後、己に言い聞かせた。
きっと幻に違いない。暗闇で無理に鏡を見続けた為、眼に余計な負担をかけたのだろう。
それでも、リーサはやり過ごせなかった。鏡台の引き出しを開ける。手探りで取り出したのは、マッチ箱。隠し持っていた貴重なマッチを一本だけ擦ってみる。音を上げ、小さな炎が揺らめいた。久しぶりの明るさに眼が眩むも、椅子に座ったまま振り返る。ベッドの方へマッチ棒の炎を向けてみた。
やはり猫である。
ベッドに上がっている。驚きと共に、リーサの指からマッチ棒がこぼれ落ちた。
(なぜ、猫がいるの!)
寸前の処で、自分の口に手を当てる。悲鳴を押し留めた。封鎖された部屋に、何故か一匹の猫が姿を現している。全身が灰色に染まった猫だった。
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