第2話 グリューワインとフラミンゴのお菓子の家

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第2話 グリューワインとフラミンゴのお菓子の家

 愛していた。好きだった、じゃなくてさらりとそう出てくるほどに、誰かを想ったのは初めてだった。  それが本当に愛の名にふさわしい感情だったかなんて、誰にもジャッジする権利はない。  恋する女の背伸びを笑うやつは、地獄に落ちて八つ裂きにされるがいい。 「こういうタイプ、ほかに女いるよ。やめときな」  友達には、そう言われたことしかなかった。でも私は聞く耳を持たなかった。だって、当たり前でしょう。  すらっとしていて背が高くて、髪の毛は生まれつき茶色くてパーマをかけているみたいにふわふわで、憂いの目もとは皮膚が薄くてピンクに透けているのに、鼻も顎も男っぽく骨がしっかりしている。そんな男が現れたんだから。  なめらかで白い肌がごつっとした指に貼りついているのを見たときには、心の中で神様に祈った。  どうか、この人を私のものにしてください。この人の指を今すぐ切り取って、誰の目にも触れないようポケットに仕舞って、こっそり持って帰ってしまいたい。滴る血を舐めて夜を過ごし、キャンディのように舌で転がして朝を迎えたい。  いえ、今日のところはそれで済んでも、明日はきっとそのまぶたもまつげも欲しくなる。明後日には、立派な鼻筋と口角の上がった厚い唇を欲しがって、(たけ)り狂うだろう。  この人なしでは生きていけない。神頼みより確実に、私だけのものにしたい。  見た目で好きになったの? って聞かれたら、それの何が悪いの? と返したい。  女子がみんな学生のうちから全身脱毛して、頭頂がプリンにならないように月イチでカラーリングとトリートメントして、ネイルしてダイエットして、痛い思いして顔を切り刻んで二重(ふたえ)にしているこの国で、なんで見た目で男を選んじゃいけないの。  アプリの出会いはロマンティックじゃないけど、私が運命に変えてみせる。彼のプロフィールを見て、好きそうな映画も小説も漫画も予習した。  偶然ですね、私も好きなんですよ。男の前でそのセリフを重ねれば、偶然は運命になるんだから。  そんなふうにがむしゃらに急造した運命は、結構頑張ってくれたみたいだった。デートは続き、私は単館系の映画と村上春樹に詳しくなり、服のテイストはベージュっぽいナチュラル系になり、ネイリストの命である爪を短く切りそろえ、料理を頑張った。  彼のほうは何も変わらなかった。雑貨屋の派遣社員として働き、お客さんに告白されたりときどき付きまといに遭ったりし、たまに金曜の夜に連絡が取れなくなって朝に「ごめん、友達と飲んでてつぶれてた」と言い訳のメッセージを送ってきた。  そんな晩に限って、ふたりで一緒に入れているGPSアプリの位置情報が消える訳も聞かずに、私は爪を噛み続けた。  食い破られた爪を隠すために絆創膏を貼って出勤すると、店長は「私たちの爪は名刺代わりだからね」とおっくうそうに言った。  爪が自己紹介なら、今の私は外から見てもどうやらぼろぼろらしい。彼と出会う前の私のネイルは健康的で硬く、オーバル型に整えられ、よくフラミンゴみたいな色に塗られていた。  見るだけでぽっと体温が上がる、恋をした瞬間の頬みたいな色だった。今は、ぺらぺらになった爪にいつも同じヌードカラーのジェルネイルを施している。  硬化したジェルも、「好きな男の指を切り取ってしゃぶりたい」と思う私の激しさには耐えられないようで、歯と歯の間でたやすく砕かれていった。  3年の月日が流れた。私は村上春樹を全部読み終えていた。本の中で、初対面の女の胸の大きさを目測せずにいられない性分の男と、精神を病んだり死んだりする女性にたくさん出会った。  彼はそういう感想を嫌がるから、言わなかった。馬鹿にするだろうから、好きな作品ができたことも内緒にした。  噛む爪もなくなって、それでも苦しくて仕方ないとき、その短編を読むと頭の中がしんとして少しだけ楽になれた。  長らく、毒と毒消しを一緒に飲んでいる気分だった。もちろん毒が彼で、毒消しはモーヴピンクのおしゃれな本の中にある、美しいお話だった。  でも、好きで摂取している毒は、私の体が許容できる有害さをとうに超えていたらしい。仕事中に突然倒れて入院し、一晩中、毒をまとった(はえ)が体に潜り込んで内臓を食い荒らす夢にうなされた。  追い出されるようにして病院を出た翌朝、駅のホームで、充電量3%のスマホから彼にメッセージを送った。 『愛してるよ』  嘘でも「俺も」って返してきてくれたら、続けられると思った。「愛してるよ」って返事だったら、シャワーを浴びて化粧して会いに行きたかった。  でも、1時間待っても既読さえつかなかった。駅の自販機で買ったココアはすっかり冷たくなっていた。  電車に乗って、よろよろした足取りで帰宅する。枕もとの本棚に置いてある、モーヴピンクの本に早く会いたかった。だけど、いつもの定位置には一冊分の空白があるだけだった。  生ぬるい昼の光に照らされ、きらめく埃をぼんやりと目で追う。それから倒れるようにベッドに突っ伏すと、飢えた人が食べ物を貪るみたいに、必死に暗いところに落ちていった。
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