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第一章 童話は彼女を救えない2
死ねたら楽になれるだろうけど、まだ死にたくない。
だから、自分を追い詰めるあの人が、義母の彩が死ねばいいのにと思う。
そして、昔のようになるのだ。昔の自分に戻るのだ。
戻られるならば――しかし、その見込みは皆無だった。
「……寒い。でも家に帰れない」
此処にしかいたくないのに、家に帰らなければ凍死する。
死んだら負け……。あの人に負ける。
そんな風に闇の中で紀枝は思っていた。
それでも、息が詰まるほどに苦しい。
生きるのが困難になってきても、誰も助けに来やしない。
童話のように王子様なんかいないと、紀枝にはわかってしまった。
だから、自分でなんとかしなくてはならない。
自分で生きる術を探すしかない。
だけれど、こんな恐ろしい日常をどこまで続ければ、出口に辿り着くのだろう。
それとも、出口などないのだろうか?
ああ、出口はないのかもしれない。
悩んでも悩んでも、解決方法が見つからないのだ。
「家には、帰りたくないよ」
もうすぐ、紀枝は裏庭という居場所を失ってしまう。
ここは、唯一彼女が安らげる場所だった。
古い酒蔵の方にある広いが寂れた裏庭だった。
じっとりとした陰気な気配に満ちている場所だった。
春は剪定されていない木々の枝を緑葉が垂れ曲げさせ、夏は木の他に雑草が生え広がって虫が飛び交い、秋は木の実を求める鳥が集まって糞を散らかしていく。
枯れた古井戸があり、昔はそこから酒造りの水を引いていたという。その古井戸の石周りは常に湿っていて蔦がからまり、裏庭の辛気臭さを強調している。
それでも、此処は紀枝が楽になれる唯一の場所だ。
しかし、冬になると、降り積もる雪が彼女の苦痛と同じ量に重なって重なって積み重なって、裏庭を埋めてしまうのだ。
そして、昼でも氷点下の時期が来て、裏庭は死を呼ぶ場所となる。
此処にいたら死んでしまう。
――ああ、どうして、どうして、冬に安らげる場所がないのか!
悔しくて、顔をぐしゃりと歪めて目を閉じると亡くなった母の顔が思い出された。
(お母さんも、裏庭でこんな顔をしていたっけ?)
まるで遠き過去を思い出すように、近い過去を彼女は引っ掻きながらたぐり寄せる。
紀枝の母が亡くなったのは、今日のように風が叫ぶ日だった。
『優しい心を持った人になりなさい。強い心を育てなさい』
亡くなる寸前で、そう母が語っていたが……、紀枝の中にあった優しさは水たまりの薄氷よりも脆くなっている。
踏んだら、直ぐに割れるのだ。
紀枝の家は、代々続く造り酒屋<葉山酒造>を営んでいる。
地元では有名な大きな酒屋で、機械化された近代的な酒蔵と、祖父が杜氏をしている手作りの酒蔵の二つを運営し、造られた酒は全国的に販売されている。
『ねぇ、お母さん。お父さんは、どうして家に帰ってこないの?』
『それはね、お仕事でとっても忙しいからよ』
小学校に入ってから紀枝はそうやって何度も母に尋ね、そして母は同じ答えを返し続けた。しかし、事実は違っていた。
父は彩という水商売の女と付き合って同棲を始めたのだ。
元々酒屋の営業を担当していた紀枝の母は、お坊ちゃんで物知らずの父のため、有名な酒屋を潰さないために、手厳しいことを言うことがあった。
しかし、愛人の彩は、おだてておだてて「ああ、蔵元さんはすごいわ。かっこいいわ、素敵だわ。あなたに出会えて幸せよ」と世間知らずの父を有頂天にさせた。
結果的に、父は家庭をかえりみなくなって、だんだんと傲慢になり、助言をする母を嫌悪するようになっていった。
根気がないのと味覚が鈍いため、父は酒造りからも離れて遊びだした。
それでも、そうなる前に母は経営の基盤を整えていたし、日本酒が売れていたので酒造としての力は衰えはしなかった。
しかし、それが、ますます父を調子に乗らせた。
だけれど、母が亡くなり、愛人だった彩が家に入ったことによって、今まで築き上げたものが……呆れるほどに簡単に消え去った。
彩の助言で、大量の安酒を売り始めてから酒蔵の地位が崩壊を始めたのだ。
ハンマーで叩かれた美しいガラス細工が元に戻らぬように、安いだけの酒の悪評によって銘酒の信用は戻らぬままである。
「紀ちゃんよー、もうお家に入りなさい。風邪引くぞぉ」
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