一耳惚れ

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 いまも昔も、働かないと暮らしていけないってのは変わりないもんで。当時のあたしもそりゃ毎日あくせく働いてたもんです。まああたしの場合、仕事が明けたら毎晩のように飲んだり打ったりと身から出た錆ってなところはありますがね。  その日もあたしは港の荷揚げ人足の仕事をあがって一杯ひっかけてたんです。あ、いや、二杯、三杯。もっとだったでしょうかね。サイコロで負けがこんだもんだからヤケのやんぱち、五杯から先は覚えてませんや。銭のないときこそ使いこんじまう。他人様からお借りしてないだけまだマシってなもんで。  夜も更けた時分でしょうか。くさくさした気分で寝床に足も向かず、気づけば御屋敷町のほうまで来てました。本来ならあたしみたいのが入っちゃいけないところですし、世が世なら無礼討ちされたって文句は言えませんや。  綺麗なもんでした。遅い時間でしたが、高い漆喰塀のあちこちから行燈の灯が漏れて道を照らしてるんです。  行きつく先は極楽か地獄か。ガラにもねえことを考えて歩いてると、どっからともなく女の声が聞こえてくるじゃありませんか。酔いも手伝ってか、あたしはふらふらと声のするほうへ歩いていきました。  向こう何町もありそうな塀に沿って表門とは反対のお勝手のほうに出ると、女が歌ってるもんだとわかりました。  それが詩吟とも浪曲とも違いまして、聞いたこともない節と歌いまわしでね。ははあ、お武家様だとお唄も一味違うもんだ、とあたしは感心しちまいましたよ。  すると歌声に混じってちゃぷちゃぷと水の音がするもんで、ここは風呂場なんだとはたと気づきました。よく見りゃ星空にふわふわと湯気も浮いてるじゃありませんか。  誓って言いますがね、あたしはなにも助平心があったからこんなところに来たんじゃありません。けれども、しまった、とも思いましたよ。こんなところを誰かに見咎められちゃたまったもんじゃありません。  立ち去るときの思いといったら……あれが後ろ髪を引かれるってやつなんでしょうね。伸びのある歌声が聞こえなくなるまで、あたしは何度も振り向いちまいましたよ。    ***  次の日からでしたかね。妙に仕事に精が出ちまって。それまでは何も考えずにただ日々のたつきを立てちゃおりましたが、働くことに張り合いを持てたんですよ。  あの唄を聞いたおかげだっていうのはすぐにぴんときました。深酒をした次の日なんかは決まって二日酔いになるんですが、目覚めもしゃっきり今日も一日お天道様によろしくってなもんで。人足仲間も目を見張ってました。それだけ景気のいい面をしてたんでしょうね。  今日も一杯どうだ、なんて誘われもしましたが、あたしは断りました。寝床に真っ直ぐ帰ったんじゃありませんよ。あそこは女日照りの日雇いとトコジラミぐらいしかいませんからね。  あたしは晩飯を済ませてからぶらぶらと時間を潰すと、頃合いを見て御屋敷町に行きました。ただし今度は表門じゃなしに真っ直ぐお勝手のほうにね。  それで例の家に差しかかったあたりで、風呂場の窓からまたあの唄が聞こえてきました。天にも昇る心地ってのはちいっと大げさですけどね。こう、胸のなかをすうっとあったけえもんが入ってくるんです。  あたしはちょいと足を緩めると、雲がかかってるのに月を見るふりなんかして、その唄に聞き入りました。そいつが妙につまされるんですよ。どこが悲しげというか、聞けば聞くほど違ったよさがあるんです。  けれども長居も無用ですよ。ここでお咎めでもありゃあ、あの唄を聞けるのもこれっきり。そんな分別がまだあたしにも残ってたんでしょうね。  けれどもその次の晩、また次の晩と仕事をあがるとどこかで時間を潰しちゃあ御屋敷町にふらりと立ち寄るってのが、すっかりあたしの日課になっちまいました。それまで酒でも銭でも、あるならあるだけみんなやっちまうあたしでしたが、この唄だけはほんの一節聞くだけでよかったんです。  飽きたんじゃありませんよ。いえ、飽きるなんてもってのほかです。ただあたしは、その唄をほんの少し耳に入れるだけで、もう胸がいっぱいになっちまうんです。  ガキの時分には死んだお袋がたまにしっぽくを茹でてくれましてね。あたしの大好物だったんですが、お袋の背中にしがみついてそいつに火が通ってくのを見ると、それだけで腹が膨らんじまうんです。御屋敷町で聞く唄は、そいつに似てるんですよ。いえね、しっぽくの味がするっていうんじゃありませんよ。けどまあ、腹の内がこう温かくなっていくところは似てますね。  けれどもいけませんね。しっぽくってのは食べればなくなるし、腹がくちくもなるもんです。だのにあの唄ときたら、御屋敷町に行けば毎晩だって聞けるってのに、朝になるとまたそいつを噛みしめたくなっちまうんです。まったく、耳に何を入れようと腹が膨れることなんてありませんのにね。それでまた、お叱りを承知で御屋敷町に行っちまうんですよ。  付き合いが悪くなったもんだから人足仲間から皮肉を言われちまうんですが、唄さえ聞けりゃあそれもあたしにとっちゃ些末なもんでございます。  そのうちあたしはこんなことを考えるようになりました。  あの唄の主はどんなお人なんだろうって。
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