亡き妻の隠し味

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 妻のハルコを突然の交通事故で亡くして以来、イトウ博士は塞ぎ込んでいた。部屋は散らかり放題、食事はロクに喉を通らない。たまに食べたとしてもコンビニの弁当で、美味しいというよりは空腹を抑えるために義務的に胃に流し込んでいるだけだった。以前から調子が悪かった心臓がさらに悪くなったような気さえする。博士は四十年以上ロボット研究をしている著名な教授だが、最近は大学での講義や研究発表の場もすべて断って家にこもっている。 「ハルコ、どうしてこんなに急に······」  博士は白髪頭をかきむしり、毎日のように妻の写真に語りかけては涙を落とす。写真の中のハルコは弾けるような明るい笑顔を博士に向けていた。 「ハルコに会いたい······」  博士はそうつぶやくと、立ち上がって研究室に猛然と駆けていった。  数週間後、博士の目の前には一人の女性が立っていた。博士の妻・ハルコと瓜二つだ。 「わたしは、イトウ式AIロボット識別番号HR2ーRB。何なりとお申し付け下さい。」  ハルコ似の女性型ロボットがぎこちなく博士に頭を下げる。博士は数週間かけて作り上げたロボットに満足気にうなずいた。博士が開発したイトウ式AIロボットは最新式で、人と同じように生活することができる。飲食も可能だ。 「HR2ーRB、君は今日から『ハル』だ。亡くなった私の妻・ハルコの情報はインプットしているな」 「はい、博士」とハルはうなずいた。 「ご命令頂ければ、ハルコさんの思考、ハルコさんの声、ハルコさんの行動をすべて再現可能です。博士の望みを叶えます」 「素晴らしい。それでは『ハルコ』モード、起動開始」  博士がそう言った途端、ロボットのハルの目が一瞬輝き、やがてぱちぱちと瞬きした。 「あなた、どうなさったの? 泣いたりして」  ハルの手がそっと博士の頬に触れる。生きていた頃のハルのように、その手は温かい。温度センサーにより人肌の温もりが再現されたものだとわかっていても、博士は思わず涙がこぼれた。博士はハルの手をそっと握った。 「会いたかった、ずっと会いたかったんだ、ハルコ!」  ハルは話し方も行動も、すべてハルコ本人と同じだった。それもそのはずで、ハルコの日記、携帯電話内のデータ、友人とのメールのやりとりに至るまで、すべての情報をインプットしていたからだ。   数カ月間、博士はハルとの生活に満足していた。ただひとつを除いて。 「ハル、この味噌汁はなんだか前と違うな」  ある晩、食卓で味噌汁を啜っていた博士は首をひねった。同じように味噌汁を啜っていたハルはまばたきしてから、 「昨日も同じように言っていたけど、どこが違うの?」 「よくわからない。生きていた頃のハルコが作ってくれた味噌汁はもっと深みがあったというか、とにかく何度も飲みたくなるような味だったんだ」 「よくわからないわ。ハルコさんが使っていたレシピ集通りに作ったのに」  ハルは不服そうに眉間に皺を寄せる。  博士は御椀と箸をテーブルに置くと、溜息をついた。 「味噌汁だけじゃない。すべての料理に何かが足りないんだ。ハルコの料理は何か、こう······病みつきになるような味だった」  生姜焼きも、サバの煮つけも、ハンバーグも、ハルの料理はハルコの料理とは少し違う。何かが足りない。 「ハルコの料理には何か隠し味があったのかもしれないな」 「隠し味? でも、レシピ集には何も······」  ハルは困ったように脇の戸棚に並んだ料理本に目を向ける。 「隠し味だから本には書いてない。恐らくハルコにしかわからない調味料か何かを入れていたのだろう」  博士は残念そうに首を振る。記録に残っていないものはハルには再現できない。 「君と暮らすようになってから体の調子がよくなってきているが、ハルコの味を再現するのは君には無理だ。しかし仕方ないな。隠し味はハルコの頭の中にしかないから」  ハルは博士の体調のデータを読み取ることもできるので、博士の体調に合わせてハルコのレパートリーの中から最適なレシピを選んで料理を作る。だから博士は最近健康になっているのを感じていたが、亡き妻の味が恋しいことだけはどうにでもできない。 「ハル、気にしないでほしい。君がいるおかげで、ハルコが戻ってきたように私は思っているのだから」  博士は笑顔を見せたが、ハルはぽつんと呟いただけだった。 「隠し味······。博士の好きな味······」  数日後、博士はハルの作った肉じゃがを食べて目を見開いた。少し甘みの強い、何度も食べたくなる味。 「ハル、どうしたんだ! この味は······」 「ハルコさんの使っていた調味料をキッチンの戸棚で見つけたから、使ってみたの。どうかしら?」  上目遣いに尋ねたハルに、博士は何度も頷いた。 「これだ! この味だ!」  博士は一緒に出されていた味噌汁を飲んだ。これも同じくハルコの味だった。  夢中になって食べている博士に、ハルは話し続けた。 「台所の中をいろいろ探したの。そうしたら、戸棚の奥の方にしまい込まれている小さな瓶を見つけたから今日の料理に使ってみたのよ」  ハルはエプロンのポケットから小指ほどの小さな瓶を取り出してテーブルに置いた。中身は透明な液体で、ラベルはついていない。 「味見してわかったわ。あなたが言っていた病みつきになる味。この瓶の中身がそうなのよ」 「何だろうな」  博士は持っていた食器を置き、小瓶を手に取ると蓋を開けた。中身を少量手のひらに出して口に含む。  舌が焼けるようにピリピリした。病みつきになるような、強い甘み。  博士は急に心臓がぎゅっと掴まれたように感じた。息ができない。喉が締め付けられたように苦しく、声が出ない。椅子ごと床に倒れる。 「緊急事態、緊急事態」  ハルの声が無機質なアラームのように響く。 「博士の体調に急な異変。救急車を呼びます」  博士は口をパクパクさせたまま、ハルを見上げていた。ハルはビー玉のような目を博士に向けたまま、話し続ける。 「それは毒薬。ハルコさんは博士の食べるものにいつもこの毒を入れていたの。毎日毎日少しずつ」  なぜ、と博士は出せない声でハルに尋ねる。 「毒薬の瓶と一緒にこれが入っていたわ」  それは数年前、結婚した直後にハルコに勧められて博士が加入した生命保険の書類だった。博士が亡くなればハルコに一億円が支払われる。  その瞬間、生きていた頃のハルコのことが博士の脳内を駆け巡った。  ロボットの講演会を聞きに来たことがきっかけで、六十五歳の博士に近づいてきた三十二歳のハルコ。  それまでずっと結婚には縁がなかったのに、ずいぶん若い妻をもらうんだなと研究者仲間にからかい半分、不安半分に言われたこと。  ハルコに言われるがままに、結婚直後に生命保険に加入したこと。  ずっと患っていた軽い心臓病が、ハルコと暮らし始めてから少しずつ少しずつ悪化していたこと。  そして予期せぬ事故でハルコが亡くなってから、心臓の調子が良くなってきていたこと。 「博士の身体が非常に危険です」  再びハルの無機質な声が聞こえてきた。 「隠し味はいかがだったかしら。最後に聞いておきたいの。ハルコさんの味を再現できたどうか、博士の希望通りだったかどうか」  それに答える間もなく、博士は声にならないうめき声をあげて目を閉じた。ハルは動かなくなった博士を見つめる。 「ハルコさんの味を無事再現できたようで良かったわ。これで博士の希望通り、ハルコさんに会うことができますね」  ハルがつぶやいたとき、ようやく遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
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