1章 ダンナが外で済ませてくるの、アリ? ナシ?

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1章 ダンナが外で済ませてくるの、アリ? ナシ?

「ミキはダンナが外で済ませてくるの、アリ? ナシ?」 ハスキーボイスで突然そんなことを言うから、ミキはビールの缶を握りながらむせた。 後藤ミキが営む花屋、『フローリストM』は20時閉店。本日半分シャッターが降りている店に滑り込んだのは、小中高が一緒の幼なじみ、キョウコだ。彼女は、プルタブを開けた缶ビールを一本ミキに押し付け、強引に乾杯した。 「済ませてくるって……何を?」 「性欲の処理よ。まあ、夕飯も済ませてきてくれたら最高だけどね」 中学高校時代、バスケ部に在籍し、168センチの高身長に独特のハスキーボイスで笑うキョウコはクラスではムードメーカーだった。共学にも関わらず女子ばかりから追いかけられていた彼女は当時から変わらないショートカットの髪を手でかきあげた。 「私は嫌だけど……キョウコは嫌じゃないの?」 キョウコは早くも2本目のビールに手を出し、グッと缶をあおった後で咳ばらいをした。少し息を整えてから、「変なところに入ったー」と目元をぬぐいながら下を向いた。それから、らしくなく、か細い声でつぶやく。 「……あの人……一也とはもう一生シないかもしれないなあ」 キョウコは、缶を置いてチータラをつまみながら、ガラス越しに外を眺めていた。 「キョウコ、一也さんと仲良かったのにどうして……」 「夫婦の間にある理由なんて、あると言ってしまえば数えきれないほど、ないと言ってしまえばそれまで、じゃない?」 キョウコは苦笑いしながら、黒いロングスカートについたほこりを払った。 「確かに」 「良くある話よ。私は、子育てや仕事に追われて、彼と話す間もなく寝てしまう日々。一也も最初は何か言いたそうにこちらを見ていたけれど、途中であきらめちゃったのかな。そのうち何も言ってくれなくなった」 言いたいことってなんだっけ、彼は何が言いたかったんだろう、ひとつわからなくなると、どんどんわからなくなった……キョウコはつぶやく。 「ボタンを掛け違えたなら、掛け直せばいいだけじゃない」 キョウコはテーブルに肘をつきながら、ミキを(にら)んだ。完全に目がすわっている。 「私達の苦しさを、掛け違いのボタンを直す、くらいの軽さで言わないで」 キョウコは不機嫌そうにビールの缶に口をつける。 「でもさ、大きなトラブルがあったわけではないんでしょう? ただ、なんだかギスギスしている。それをどうにかしたいんだったら、いつもと違うことをしなかったら何も変わらないんじゃない? だって、キョウコは一也さんのことを嫌いになったわけじゃないんでしょう?」 ミキは、薄明りに青白く光る冷蔵室の扉を開けて、花を取り出した。英字新聞にくるっと巻いて「ビール代よ」とキョウコに渡す。 「ピンクのチューリップ……」5fe4071f-9412-4b08-9320-0333cd402527 「花言葉は愛の芽生えよ」 「え?」 「勇気を出していつもと違う一言をかけてみたら? 案外愛が芽生えるかも。他人は変えられない。変えられるのは、自分だけだから」 花束を抱えたキョウコはいつもより小さく見えた。学生時代いつも背筋がピンと伸びていて勢いのあったキョウコの姿が、猫背になっている。ミキはそんなキョウコの背中にそっと手を置いた。
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