序章 絶望

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序章 絶望

 まるで演技しているようだと、陽菜子は思った。  勝彦が借りた高級マンションの1DKの自室には西日が射し込み、高価な調度品を明るく照らし出してた。しかしいまの陽菜子には、そのどれもこれもが白黒に見えてしまう。  勝彦は突っ立ったままの陽菜子の下腹部に額を寄せている。だらりと下ろしたままの陽菜子の両手を掴み、先ほどから土下座のごとき体勢で懇願し続けていた。 「本当に申し訳ないけど、堕ろしてほしい。本当に、本当にごめん……!」  陽菜子の子宮では、いままさに命が育っている。相手は無論のこと勝彦だ。  勝彦はおそらく無理やり泣こうとしているのだろうと、陽菜子は冷めた目で彼を見下ろした。小学生のころの彼女に「星がきれいだね」と言ったらしいキザな彼のことだ、雰囲気に酔っているに違いない。 「ごめん……でも、お願いだ……!」  何も言わない陽菜子が絶望しているとでも思ったのか、勝彦は謝罪と懇願をやめない。  しかし陽菜子の中では最初から答えなど決まっていた。  まだ大学三年生、遊びたい盛り、勉強や仕事もある。こんなこと両親どころか親友にだって言えない。産むわけがない。それに勝彦にはすでに妻子がいるから、温かな家庭が築けるわけがないのだ。そんなこと最初からわかっていることだ。  でも勝彦が、陽菜子を選んでくれ、守ってくれるのだと、浅はかにも期待する部分がどこかにあった。陽菜子にはそれが悔しくて、情けなかった。その感情をぜったいに表に出したくなくて、勝彦をただ無言で見つめることしかできない。 ――ああ、今回も終わった。  陽菜子がこう思うのは、もう何度目になるだろう。  いくら自分を好いてくれる男と巡り会って恋をしても、最後には必ず別れがやってくる。永遠なんてない。いつも幻想ばかりだ。普通で構わないのに、その普通さえ訪れてくれなくて。このままでは永遠に幸せになんてなれない。 「“愛”ちゃん?」  源氏名を呼ばれ、陽菜子はハッとなって思考を断ちきると、笑顔を取り繕った。 「わかってるよ、大丈夫。大丈夫だから」  すると勝彦はホッとしたのか、ようやく緊張を解いて立ち上がる。  勝彦を前にすると、顔がテカテカと光っていた。四十二歳のくせに、若者用の化粧水なんて使っているからだ。それが滑稽に思えて、陽菜子はよりいっそう口角を上げる。 「かっちゃんに負担をかけることはしないよ」 「……そっか。ありがとう、愛ちゃん」  心からであろう台詞に、いっそ清々しささえ感じてしまう。  だから目一杯、勝彦を困らせたいという気持ちになった。経済的に、どこまでも。 「堕胎費用は出してくれるんだよね? 入院とか、必要になるかもだから……」 「もちろんだよ。いくらぐらい必要かな?」  勝彦はさっそくスーツの胸ポケットからブランド物の財布を取り出した。中には万札がぎっしりと詰まっている。中小企業の社長とはいえ、羽振りはいいらしい。  陽菜子があらかじめ計算していたより多い金額を告げると、勝彦はためらうことなく彼女に全額差し出した。  妊娠初期に入院なんて必要ないのに。結婚しているくせにそんな知識もない勝彦と、そんな彼を選んだ見る目のない妻を心から嘲ってやりたい。  見る目のなさは勝彦の妻と同等なのに、なぜか勝ったような気がした。  こうして陽菜子は万札の束を握りしめ、今日も絶望を希望に変える――。
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